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「データ」とどう付き合うかを改めて考える

前回は「成長」の方向性についての雑感をまとめてみた。
今回は「データ」との付き合い方について。

先日ブログに書いた以下の本では、科学におけるデータの重要性を以下のように語っている箇所がある。この本、いいか悪いかは別として、色々と考えさせられる。

中世とは違い、現代の我々は、物理法則の複雑さを認識している。相対性理論や量子論は世間に広く知られ、宇宙工学も発達した。また我々は、創造的なアイデアが自然科学に大きな飛躍をもたらすことも知っている。もちろん、そのプロセスに検証が欠かせないことも。科学の進歩は、少なくとも精密さに裏付けされている。(中略)
 しかし皮肉なことに、社会科学に関しては、我々は直感的な発現をすることが多い。評論家やジャーナリストを見ても、教育や四方の問題については、比較的気軽に持論を展開している(しかも妙に説得力がある)。しかし、科学や工学についてはそうはいかない。自分の思い入れやストーリーより、データが先だ。
 ところが社会問題になると、逆に何の裏付けもないほうが、説得力のある話として受け入れられる。それが単なる個人的な直感でしかなくても「信念」が礼賛されてしまう。

マシュー・サイド著『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』より

一見すると、ごもっとものように聞こえる。確かにデータは重要だ。マクロな視点で言えば、経済対策の効果を測るためにはGDPの増減を見なければわからない。また、ミクロな視点で言えば、家計簿をつけないと、無駄な支出がどの分野にどの程度あるのかが明確にならない(ざっくりとはわかる)。

そして、個人的な意見に過ぎないものが、やたらと説得力があるように感じる局面もあるのは確かだ。著者ほど言い切るつもりはないが。

しかし、個人的には賛同できない。データだけでは説明しきれないし、何より、データで取得できる要素以外のところに重要な点が隠されていることもあるからだ。むしろ、データは主張の「補助」でしかない。

というのも、データは簡単に歪められる。だからこそ、自然科学の分野でも、データの測定時、「適当」は許されない。アメダスで気温を測るにしても、明確に条件が規定されている。もっとも、そのルールの範囲内であれば、意図的に自らにとって好ましい方向性のデータを取得できないことはない。また、意図的でなくても、外部環境の変化により、正確な値が取れなくなることもある。その影響でアメダスの位置が変わり、ちょっとしたニュースになったこともある。

ましてや、社会科学は自然科学以上にデータの取得方法に気を使わなければならない。「データ」を専門的に扱う学問、統計学でもこの点には注意が向けられている。先に述べたように、不正確なデータからは不正確な結果しか出ない。そして、社会科学に関するデータの場合は、政治的な意図、個人的な都合等、様々な要因によって、データが歪められる。

例えば、世論調査。新聞社のポジショニングによって、調査結果が変わる。さらに、選択肢の設定の仕方によっても調査結果は変わる。

なので、データで説明したところで、そのデータが信用できるとは必ずしも言えない。迂闊にデータを鵜呑みする方が危険だろう。そして、「鵜呑み」はむしろ新たな失敗の種になる。それも、検証してしまえばOK、と言ってしまったら元も子もないけれども。

経営学の大家、野中郁次郎は自らの経営理論を構築する中で、データを大切にはしつつも、人が持つ主観的な価値観や、個々人の「心」が持つ不規則性を重要視している。それはまさにデータでは取得できない、もしくはデータ化する中で捨象されてしまう部分があることを示している。そして、データで表しきれない暗黙知・ノウハウといったようなものが、経営上重要な位置取りにある場合が往々にして存在するからだろう。この世の中、データありきで評価できるほど単純ではない。

長くなってしまったが、データはデータで大事、しかし、データでは表現できない部分が実社会には多くある。いかに自分や他人の感覚とデータとをうまく組み合わせて物事を考え、実行に移していくか。その微妙なバランスを常にとり続けること、それが「データ」との付き合い方なのだろう。

・・・と言いながら、自分自身、結構データに判断基準を依存しているんだよな、と思う今日この頃である。

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