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読書会20220828~『コンビニ人間』~

今月の読書会はテーマ本を用意した形での実施。タイトルに記載した通り村田沙耶香『コンビニ人間』を読んでその感想を話しあうというものだ。その情景をありのまま読みその感想を語る人もいれば、似たジャンルの話とも結び付けて語る人、最初に読んだ時の感想とも対比させながら語る人、そして、初版の都合上、チャットからの投稿を通じて議論に(いい意味での)嵐をもたらす人。まさに十人十色だ。率直におもしろい。あっという間の2時間であった。

今回の感想をざっとまとめておこう。議事録的な話は他のメンバーにお願いするとして。

①主人公古倉恵子のアイデンティティについて

古倉の行動は異質な面が目立つ。初めて読んだ時はそれが前面に出た印象を持った。だが、今回改めて読んでみると、行動の表面上の異質さとは別の部分を感じた。「人間誰しもが"コンビニ人間"の要素を持っているのではないか」。自分と言う存在を定義するベースに職業や生業とするものが入り込む。本来はそれがなくても何ら問題はないはずなのにも関わらず、である。果たしてそれは「普通」なのだろうか、「正常」なのだろうか?そんな印象を抱いてしまった。

また、書きながら(こういうのは文章を書くときはあまりよろしくないが…)、ふとBUMP OF CHICKENの「ギルド」の歌詞がよぎっている。「人間と言う仕事を与えられてどれくらいだ?…」本来、人も一般的な動物なのだから、生まれて育ち、その中で子孫が繁栄してくれればOK!そんなシンプルなものではなかったのだろうか?いつから人間はその一般から離れた「仕事」になり、その仕事がアイデンティティを形成する要素となったのだろうか?考えても結論などでない疑問だろう。かと言ってこの疑問を無視することそのものがある種の「浄化」のような気もしないでもない。

何はともあれ、古倉の行動そのものをもう少し整理し、それを現実社会の人々の行動と対比させてみなければ、著者が描き出そうとした古倉像は見えないように思えてならない。

②古倉の行動は本当に「異質」なのか?

古倉の行動を端的に「社会不適合者」とか「適応障害」、「発達障害」と結びつけるのは簡単だ。アマゾンのレビューを見ようとしたらトピックにすら上がっていた。そもそもそこを結びつけないといけないのだろうか?そんな気さえしてしまう。

古倉の行動は確かにその「要素」はあるだろう。しかし、本人だけが異質なのか。自分たちの行動にもその要素がないかと言われたときに、ないと言い切れる人はどれくらいいるだろうか。もしかすると、私たちは彼らが「意識的」に行っている行動を、無意識的にとっているだけかもしれない。知らず知らずの間に、学校や会社という機関を通じて「強制的に正常化」させられているだけで。まるで堀江貴文のこの本のタイトルのように。


③社会、そしてコンビニに「過剰適応」してしまう主人公古倉

古倉は周囲の人たちの「正常」との違いを明らかに認識している。そして、合わせておく方が良さそうな範囲は明らかに意識的に合わせている。それが本当にいいかどうかは別として。だが、それが結果的に古倉自身の人格にすら影響を与えてしまい、より異質さが際立つ結果となってはいないだろうか。

ちょうど、最近読んだ楠木健『ストーリーとしての競争戦略』の一節に地方都市のコギャルに関する話があった。本場渋谷(またはその周辺地域)のコギャルたちと直接触れ合う経験の乏しい地方のコギャルたちが雑誌やネットにある情報のみを元に真似た結果、渋谷のコギャルよりも過激なメイク・容姿になってしまうのではないか、というのだ。このロジックを主人公に当てはめたときにも似た要素を感じなくもない。

怒りの感情を共有している「ように見せる」ことで真人間であるかのように見せているが、他者からはそう見られていない。結局変わり者のままだ。であれば、端から自分なりの無関心さや感想を述べてしまえばよいのだが、それもできない。「真人間とはこういう存在らしい」というある種の強迫観念みたいなものがあるのかもしれない。ほかの要素があるのかもしれないが、少なくとも行動の結果として、「真人間風な」行動を取ってしまっている。それが異質さを際立たせる側面があるのだけれども。

「適切に」適応するのは案外難しい。自分が過剰適応してしまう(してしまっている)かもしれない。自分はうまく適応できたのだけども、周囲の誰かが過剰適応してしまって、その結果、異質な存在と見られているかもしれない。その時に、自分ならどう行動するだろうか?どう行動すればいいのだろうか?そんなことを考えるきっかけにはなった。答えは出ないし、結局その場その場で行動をうまく調整するしかないと思うのだけど…。

こんな調子で、自分たちの中に潜む「普通」や「正常」というものの危うさを改めて考えさせられるきっかけになった。

次回はこの本の「後半戦」。話しきれなかった部分を改めて話す機会だ。今回の話にあったような視点を考慮しながらもう一度読んでみよう。そうしたら、また新たな「コンビニ人間」像が見えてくるかもしれない。


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