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【現代教育の矛盾】子どもの個性への対応

真ん中は小学一年生になって給食が始まって初めての給食当番みたいなんだけど、給食着のボタンがなかなか閉められないらしい、たまたま担任の先生に会う機会があり「ボタンの練習してきてください」と言われた。本人にどのような指導をしたのか聞き忘れたのが後悔。

給食着のボタンがなかなかできないイメージ

ともかく言われてみれば、ボタンの服を着たことないからボタンするの上手なわけがない。ボタンの服を着たことない=ボタンをしめるのが下手。と言うロジックだからいいのだけれど、例えばディスレクシアで音読がすらすら読めなくても「練習してきてください」と言うのではないかと想像するとゾッとしてしまう。

個性や多様性という言葉のなかには、とりあえずありのままのあなたを受け入れるというところから始まらなければならないはずなのに、ボタンが出来ない=練習してきてください。では目の前の子はその瞬間全否定された事にならないだろうか。

決まったデザインの絵を教える先生

この中に「教員の忙しさ」のヒントがあるのではないか。もちろん学習指導要領の厚さがどんどん厚くなっているのは大きな問題だ。しかし例えば一年生の1学期の時間割は、同じ市区町村のなかでもすぐに給食が始まる学校もあれば、3時間目までで下校する学校もある。という事は、学習指導要領の中に書かれていることはかなり遊びがあるのではないかと推測してしまう。

例えば大人同士なら、よほどでない限り強制はしない。例えば行きたくもない学校に通い、毎日興味の湧かない授業にでて45分椅子に座って耐えたりしない。子どもならそれをやって良いのだろうか。それをやる事で子どもの未来は明るいのだろうか。親になり余計にこのことを考えてしまう。

自由にアートを楽しむイメージ

生まれたばかりの赤ん坊に、先生がついて母乳の飲み方、哺乳瓶の吸い方を教えたりしない。でも多くの子どもたちはこなしてしまう。このことから想像するに、無理やり教えず好奇心に寄り添い学びを推進したら幼いときの目の輝きをもったまま大人になれるのではないか。

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