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女性差別⊆差別⊇とんねるず?――それは真に差別なのかという問題:その3

 差別についての話となると、眼を鱗のように輝かして語る人がいます。

 鱗にも色々とあり、大きく二つに分けると、「俺は差別について知っている」――あ…、また決めたことを破ってもうた。――と「私は差別を許さない」――あーーーー……、また…。――。
 例えば近年にネットに出て来ることの増えている似非同和について、それを語る人々は前者で、後者については推して知るべし。

 いずれにしても差別についての話が鱗の利いた海鮮珍味の如く大好きなのだろうと窺えます。
 ほな私はどうなのかというと、差別についての話を嫌いではない系。

 いや…もうほんまにとんねるず語はやめます。「なくしましょう 身近なそれ系を 私から」。

 私も関西育ちなので、京都や大阪の被差別部落の惨状とか普通に見て来ています。では、だからどうなのかといえば、少しでも改善されて来ていて良いですねというしかありません。聞く処に拠ると、差別落書も今は著しく減っているそう。

 只、これはそれについて語れるかどうかは分かりませんが、同和の進展は被差別民ではないいわゆる普通の人々をかなり犠牲にしてなされて来たというのは否めない。宿命かもしれませんが、同和のような取組を勧めるためには「由らしむべし、知らしむべからず。」というような強度の秘密の護持を要する。それがないと差別する方々の影響を排除することができないからです。彼らが文句をつけてきたら「あなたのような下々の国民が何を云うか。国民が無能だから差別がなくならないのだ。」と一喝すればよいだけの話なのですが、できないのですかね?
 とにかく秘密にして黙々と進める。
 その強度の秘密の護持という観念ががいわゆる普通の社会においては負の作用を生じており、自分の任務と直接の関係のないことは知らなくてもよい、いや、知ってはならないという風潮をもたらしている。
 例えば、会社の雇用における秘密保持契約なんて要らないのです。そんな一枚のMS書体で印字された紙で企業秘密を制御することができると思える頭の弱さが日本国民の不幸と日本経済の弱体化をもたらしています。逆に、それに署名しなかったら採用するというなら或る意味で偉い企業です、そもそもそんなお水系紛いの契約をしないのが良識ですが。

 この一連の3編に渡る記事――前の2つもお読みいただければ幸いです。――の冒頭の画像、その1は京王電車でその2と3は小田急電車ですが、いずれも女性専用車。

 女性専用車は予てより疑問にしていましたが、最近のコロナウィルスのことを考えるや、危険の大きいものであることが一層明らかになりました。

 女性専用車はウィルスの感染の率が高い。

 10両の列車があって女性専用車の1両と他の9両、どちらがウィルスの感染の率が高いでしょうか?明らかに1両です。
 もし1両の女性専用車に抜かりのない完璧な反ウィルスの対策がなされておればそれは女子を護ることになりますが、そうではないならば護ってあげているかのように思い込んでいるだけ。
 ただ、感染者を隔離することと同時に予防のための隔離をするということになりますけどね。

 女子にせよ何にせよ、護ってあげているかのように思い込んでいるだけというような意味のないことは枚挙に暇がありません。
 そして、そのような無意味な施策を見てますます女性の蔑視や差別を深める人々もいたりする。「そんなことをしてもらっているようではやはり男と平等にはなれねえな。」。反差別が差別の再生産になる。

 もう一つよく分からないのは女性専用車を擁護する人達がなぜかそこに書いてある通りに「女性専用車」とは呼ばずに「女性専用車両」という書いていない呼び方をするのか?人の言っていないことも「言ーっただろ!言っただろ!!」と言うのでしょうか?

 ただ、女性の差別や女性の蔑視というものは確かに存在します。
 しかし何が差別なのかそうではないのかについて、保毛尾田保毛男についてのように、もっと虚心に分別すべきでしょう。

 例えばいわゆるOLにおけるお茶汲・コピー取というものがその殆どを構成する女子の差別にあたるのかどうか。
 女子の差別とその雇用機会の不均等の時代にあっては、そのようなものが女子の雇用の機会の開放及び維持とその差別の撤廃への途上における重要なものであったとはいえないでしょうか?
 そして現在はそれがもっと発展し、事務系の職の多くは女子のためのaffermative positionとなって来ています。
 尤も、そこで女子達がしている職を男子がしたいと思うかというと、どうもそうではないらしい。男子が色々な職を何かの勢いに任せて女子に明け渡しながら男子は就職難やの何やのとマスコミを動員してまでぼやいている。何がしたいのか皆目分からない。そしてそれがどうやら日本が西洋旧先進諸国だけではなく東南洋元後進諸国の数々にも劣る大きな原因の一つであるらしい。

 そこに浮かび上がるのが直前の記事の終りに述べた、ホモではないがホモぽい人々。

 職も風采も様々で、一概にどういう感じの人がそれにあたるとはいえませんが、そのような人は私の職場にも何人かいます。

 ただ、或る程度彼らの行動様式を観察すると、女性の蔑視という共通項が見受けられます。
 それらは皆同じような形では現れませんが、それぞれなりに女性の蔑視なのです。
 女子にも障碍者の差別があったりするので男子だけが問題なのではありませんし、経営の方針は至ってリベラルなので何とかなっている面があったり逆にそれ故に問題が見えにくくなっていたりします。
 私の職場だけではなく、手を変え品を変えて日本中に或いは世界にも幾らかはそのようなものがあるのでしょう。

 そのようなものをhomosocialismといいます。
 「ホモの、ホモによる、ホモのための社会主義」ではありません。同性社会-主義です。
 尤も、世の中には同性のみによる社会は必ずあります。それらの全てが悪い訳ではありません。
 しかしそれが主義、-ismにまで高められるといかがなものかと思われます。それを構成するのはホモではないがホモぽい人々。

 例えば私の職場におけるその一人の女子との関わり方を見ると、呆れを通り越して或る意味で面白い程にどちらかというと女らしさのないと見える女子としか関わらないことが分かりました。そこに、彼にとっては普通の意味でも多少の特殊な意味でも女らしさというものが蔑む対象であることが見て取れます。
 女らしさがあまりなくて男ぽい女子はしばしば男女平等や属性(gender)の自由の表れであるかのようにいわれていますが、そのような例もなくはないにせよ、そうではない。
 そして我が社には彼のみならず、かなり長きに亘り女性の蔑視が体質として根着いてるのだと気づきます。今の社長を見てもどう見てもそうは見えないので、前の社長がそうだったのでしょう。
 で、女らしい女子が一人また一人と辞めてゆく。今日も、かなり長く勤めていて主任級の人でしたが今日が最終日の人がいました。直ぐに辞める人もいます。

 homosocialistで女性を蔑視する人々はとんねるずをどう見ていたでしょうか?誉めもせず貶しもせず、ただ恐くてよく分からない奴らだと思っていたのか?

 木梨ノリ子ではありませんが、女子にとっても男子にとっても幸せな世の中になるためには、従来にいわれていた差別や逆差別という観念を一度は突き放して現実を虚心に見ることが必要でしょう。 

#差別 #女性差別 #とんねるず #人権

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