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ジョンステュアートミル『功利主義/Utilitarianism 』を読む。

 冒頭の写真はこの程に廃車とすることになったくまのプーさんの印鑑入で、25年前に第一生命保険の販促の寸志品としていただいてきのうまで使い続けて来たものです。しかし当時に実際に加入したのは日本生命保険でした(今は無保険です。)。
 因みに私は耐用の極短い食品や消耗品の外はどんな物も廃棄の際には電車や自動車のように廃車と言います。服も廃車、電器も廃車。

 保険という商品は資本経済の枢要をなす機関でありながら経済的効用(utility)という概念では理解し難い(できない?)経済の一大の謎の存在です。
 この二十年程は大企業の大株主として最も有力になっているのは投資銀行で、保険会社は前世紀の程には日本経済の最有力の資本ではなくなっていますがそれでも尚一定の力を持っています。
 なら保険は経済効用とは無関係かというとそうではなく、保険という商品は効用主義(功利主義/utilitarianismの直訳。逆に功利主義はmeritocracyとも訳せ、utilitarianismとmeritocracyには密接なつながりがある。)的ではないものの保険料を財源とする投資が産業の振興と経済の効用を促すという点で間接的功利主義といえます。また保険は民営の税と福祉ともいえます。
 この間接的功利主義というのが功利主義を理解しまたは実践するに極めて重要な観点と考えられます。

 ジョンステュアートミルの『功利主義/Utilitarianism』をこの程に読む前に新渡戸稲造の『武士道』を読み終えた処ですが、いわば保険というものは一見は相反するかのように見える武士道と功利主義を併せ持つ複合体。
 相反するかというのは、新渡戸はそこにベンサムやミルの功利主義を非難するかのような(ように見えてそうではないのではなく多分そうなのでしょう。)言辞がありますが彼はミルの英語の原文が難解を極めることもありてか(岩波文庫の日本語訳はかなり整理されていますがそれも少し難解です。)それを読解できていなかったのかもしれませんし、彼自らはそれなりの理解をしていても他に功利主義を理解している人があまりいなかったので誤解が広まらないようにその紹介を詮めていたのかもしれませんし、単に関心がなかったのかもしれません。
 保険は加入者の納める保険料が何の交換価値をも生まずに損失になることが最も望ましいという点と会社が収める個人の保険料を上回る交換価値を損失することになる場合があるという点で、その対顧客の仕事は商工農道ではなく武士道の原理で成り立つがその財政と投資は最大多数の最大幸福を志向する功利主義で成り立つといえます。
 実はミルの功利主義もまた損失を快しとする武士道的価値を最大多数の最大幸福(功利)につながる限りにおいて肯定的に含みます。
 最大多数というと過半数や圧倒多数がどうしても先ず想い浮かびますがそれだけではなく一人の友のために命を捨てるというようなともすれば意地汚いマスコミの隠れ蓑的興味の対象になりがちな場合などもその一人の友やその友…というような小さな範囲での最大多数です。

 きのうに辞めた会社の賃金の指定口座の信用金庫を解約した序での印鑑入の取替で、新しい印鑑入は百均の透明なのにしました。
 契約と取引の透明度を増すという意味もありますが、効用からすれば百均の印鑑入でも有り余る程に充分。寧ろ皮革調などの上等で高い印鑑入ほど傷み易かったり汚れが落とせなかったりして逆に貧相な場合(cases)が多い。
 最後に印鑑を突く時は、何やら血判を連想してしまいます😓。
 その信用金庫は好きなので、何かあれば後に取引するかもしれません。
 賃金の振込があれば時間外手数料が常時無料というのも偉いです。
 因みにこれも功利主義の観点から或いは功利主義を触媒として考えてみるべきことかと思いますが、取引の対価としての手数料というものは必要なもので、取る側がだけではなく払う側も手数料をもっと必然のものとして考えるべきでしょう。常時無料なら考えなくても済むことですがそうではない場合に、手数料の「節約」のために取引の予定を変える(急いで銀行に行くとかきょう行くのをやめてあした行くことにするとか。)はあまり良くないと思うのです。必然のものとして考えるとは手数料を常に予算に入れておく習慣です。それで偶々掛からない場合には得した気分になっても良いですが本来はない筈なものと考えると損した気分になってばかりになりますよ。

 新渡戸稲造が功利主義を棄却して武士道の衰微を嘆きながらしかし尚絶えてはいないとの希望を語った時代は武士道をその原理の一部に含む保険業が発達を見ていた時代でした。

 そして日本は世界大戦・大東亜戦争に入って行きました。
 戦中の日本はいわば功利主義と武士道が無造作に渾然一体化され、最大多数の最大幸福が軍国主義により追求しようとされていた時代です。
 付焼刃の功利主義と濡落葉の武士道がいちょう並木を形成していたのです。
 その無造作な渾然一体化は一方では廃仏毀釈の国家神道による多神教的感覚という名の一神教による思想価値の上からの一元化が促し、一方では日本史に根強い神仏習合と本地垂迹の強化による上からの一元化への迎合としての下からの一元化が促したもの。
 異なる原理を異なるものとして併存させる(多元主義または多重標準、dual standard)ではなく異なる原理を一つの原理に糾合させるのが渾然一体化です。その意味では世界に日本ほど一神教的思想価値が多勢な国はないともいえます。西洋は一神教的だが日本は多神教的(だから良い/だから悪い)というのは全く意味不なのです。

ジョンステュアートミル『功利主義』、岩波文庫

 これがまさに、近現代の日本の最も核心を突くような指摘です。
 「ような」というのはミルはそこに日本を主な念頭に置いて語るのではなく反功利主義者等の批判に対する批判だからですが当時幕末維新の日本にもその後百七十年の今までの日本にも、彼等西洋の反功利主義者等以上に当嵌まるものでしょう。
 昨今によくある新自由主義、即ちネオリベが世界と日本を狂わせたとの批判もまたその同類で、そもそも新自由主義とネオリベは全く由来の違う異質なものです。新自由主義は功利主義の一種ですがネオリベは反功利主義で、実に百八十度以上も違います。
 新自由主義はそれまでの西洋になかなか根づかなかった功利主義を事実上初めて根づかせた歴史的変革です。新渡戸稲造が功利主義は駄目だねと批判していた時代には未だ西洋にも功利主義は思想家の試論としてしか存在していませんでした。新渡戸の批判は世相の批判ではなく学界内の批判に過ぎません。
 実は日本は西洋より一足早く功利主義とそれに基づく新自由主義的価値観を現実に始めており、それが池田勇人政権の所得倍増計画と田中角栄政権の列島改造計画です。二十年以上も早くからです。
 GBRのサッチャー政権はそれら日本の有力な政策に触発され、日本に追いつき追い越せということからの政策です。
 処が、先発の日本は功利主義も新自由主義もいつしか立ち消え、代わりにネオリベという一見は似て見えるが全く異なる思想価値が席捲しては衰退し、後発のGBRは安定成長を維持している。他にも既に日本を追い越すことが確実な国々が十指に余る程にあります。

 「旅行者に本人が行こうとしている最終目的地がどこにあるかを教えることは、途中にある目印となるものや道標の利用を旅行者に禁じることではない。」という批判の対象はネオリベの自己責任論と全く一致します。
 寧ろ、新自由主義は目印や道標というものを自由を守るための規律としてとても重視します。
 日本におけるそのような勘違い(というか別ものの確信犯的信念)の原因の一つはコロンブスとレーガンは同じ一つのアメリカ的価値でつながっている筈だ(、そして日本には日本らしい形でのアメリカ的価値に比肩されこそすれ劣らない類似の価値があるのだ、)という超訳的歴史観でしょう。
 寧ろレーガンはブードゥーなどと呼ばれて殺される側に擬えられていたのがアメリカにおける普通の理解なのに、コロンブスを祖とする殺す側の論理の継承者だというのです。
 アメリカにおける功利主義の普及は実に長い年月を掛けて少しずつ勧められ、日本やGBRのように革命的に強力に推進されることはあまりありませんでしたし今も緩やかです。アメリカの功利主義は農家のおやじ的懐の深さ(選挙制の絶対王政による。)がしばしば代替として「効用した」故に功利主義を強く打ち出す必要が永らくあまりなかったからです。功利主義が最も強いのはケネディ政権でしょう。
 また、ミルの時代にも既にそうであったように反対者や嫌悪者の多い思想だという認識から銃社会でもあるアメリカの政治や社会は功利主義を強く打ち出すことには過敏な程に慎重なことも一つの理由です。

 功利主義とは何かを簡単に言えば、それは利己と利他を併存両立する哲学です。
 一方の欠如を危惧するあまりにそれらの一方ばかりが強調される(アンチテーゼをなす)ことはどうしてもありがちですが自他(最大多数)が最大幸福を得るようにすることが今や曲がりなりにも世界の常識にやっとなりつつあります。
 そしてそれは世界と社会の分断を「超えて」一致(本地垂迹)を図るのではなく分断にありながらより多くの分子が最大幸福を得ることを図る流動的分断により実現されゆくべきものなのです。
 そのためには例えば武士道が助けとなるかもしれません。

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