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手作りマスクという最終兵器

 初めにその話を聞いた時に、まず感じたのは「世も末」という感じ。

 しかし、それを経済合理性で考えてみると、実は理に適うのではないかと思う。

 そしてその予想の下にネットの検索をしてみると、結構な企業や社団が手作りマスクの製造販売宣伝を勧めているといいます。
 もしや、刑務所も手作りマスクの製造配布に乗り出すかもしれません。今から製造設備の新規の導入は難しいでしょうし、作るとしたら手作り型のものということになるでしょう。

 元々、私は「手作り」を売文句(commercial phrases)にしたり哲学(philosophy)にしたりすることを嫌う。
 物には必ず手で作る所と機械などの道具で作る所があるのだし、製造物を「手作り」とそうではないものに分ける意味が全く分かりません。

 手作業にも生産速度の大小があるし、機械作業にも生産速度の差があります。機械作業なら早いとしばしばいわれますが、機械が物を早く作ったり情報を早く処理するにはそれが可能な性能や動作環境を要します。それは単純に電池(battery)と原動機(motor)の配線を見れば分かります。

 「人類は火を起こした時からエネルギー革命が始まった。」とは脱原発を支持する或る衆議院の選挙区支部長達の掲げる宣伝文句ですが、生産とは火という最初の動力が発見された時から、いや更に前に、石を使うなどいう頃から、人の手の力と道具の力が合わさって成り立っているのです。どちらかだけということはありません。
 手を使わない生産はあり得ないのに「手作り」。――何かおかしい。
 恐らくその意は機械などの道具というものの存在感をなるべく隠蔽し或いは実際にも排除しようという或る種の哲学が感じられます。

 「機械での自動化に人間の知恵を付けて自働化」というトヨタ生産方式の哲学を知れば尚更に、「手作り」という哲学の意味のなさが分かります。人間と機械はお友達だからです。

 しかし手作りマスクというものを経済合理性で考えると、実は理に適う。
 大量生産設備を使う製造より生産可能量は少なくて価格が高くなる訳ですが、初めからそのような前提なので価格の高騰がほぼほぼあり得ない。ごく限られる規模においてなら安定供給が保証されます。大量生産設備による生産及び供給は「大量にできる」という前提があるために、既成の容量による「大量」を超える需要がある場合には生産供給の停滞や価格の高騰が生じ得ます。

 マスクが必要な人に必要なだけ行き渡るためには、むしろ手作りマスクが最も低リスク高リターンです。

 というか、普通の大量生産のマスクや化粧紙などももう少し価格の高騰が生じればよいのです。価格の高騰は過剰消費及び供給不能の抑止力になるもので、こんな状況にあっても通常の販売価格を維持しようとするのがおかしい。
 阪神淡路大震災の時におでんを一皿数万円で売っていた屋台があったそうで、それを非難する声がありますが、もしそこでいつものおでんの値段で売られていたり安売されたりしていたら貴重な食べ物があっという間もなくなくなって多くの被災者がそれこそ理不尽にしか感じないでしょう。
 皆が困っている時にそんなに高く売るなんて酷いという非難は丁度「手作り」の哲学にあてはまるでしょう。機械装置のような物質としての形はありませんが、需要と供給及び価格という経済装置の存在を否定し、被災のさ中に温かい食べ物が安く手に入るという意味不明なことを考える。そのような状況には軍が無償で配布することが最も無難なのですがそのような常識的発想はなく、無償配布はあってもごく一部の政治家の功名心のためのスタンドプレーとしてしかない。

 価格の高騰に由る過剰消費の抑制ということは消費税についてもいえます。

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 高騰といっても10%ですが、もし消費税が軽減されたり引下げられたり廃止されたりしたら過剰消費が生じて貧しい人々が更に貧しくなり延いては不健康になる虞があります。
 これは予てより口を酸っぱくして指摘していることですが、消費税が一律10%になれば代替需要という現象で、より低価格の商品や企業が売れる機会が出来、むしろ経済の活性化と成長になるでしょう。個人としても既定の消費のあり方を見直すことにより暮らしと生き方の改善が望まれます。

 そのような生き生きとした芽を摘むのが「手作り」や「庶民の生活を守る」という哲学です。

 手作りマスクは偶々経済合理性に適うと思しい稀少な例ですが、人間らしさというものを履き違えている「手作り」や「庶民」などというものが人間を不幸にするということがもっと深く考えられてほしいです。

#マスク #経済 #日本経済 #経済学

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