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存在は存在しない?スピノザ哲学で分かる日本人:日本の三大思想:スピノザ・プラグマティズム・道教 その6

 スピノザ哲学を代表する『エチカ』、いわば哲学界の駅地下で、日本人にとっては親しみ易い哲学です。
 それもその筈、スピノザ哲学は江戸時代にオランダ学者を通し伝来し、日本の主流の思想となって四百年。
 それに匹敵するのは古代にシナ朝鮮から伝来して三千年程、戦国時代以前の主流だった道教と大正時代にアメリカから伝来して百年のプラグマティズムです。
 それら三者の盛衰、影響や干渉から古今の日本の歴史と社会の大筋、日本の強味と弱味が分かります。
 日本に独特といわれる様々な現象もそれら三つの外来思想又はそれらの混淆により生じるもので、日本人に独特の性質というものはありません。

 『エチカ』を見ると、「思考と存在の同一性」という概念と「自由意思の否定」という概念が出て来ます。読み字の如く、思うことや考えることが存在そのものであるということと自由なる意思は存在しないということですが、そこで「あれ?」と矛盾に思う人も多いのではないでしょうか。
 私も矛盾に感じましたが私は人の言うことやすることを「言っていることとやっていることが違うじゃないか。」とか「さっきと言ってることが違うじゃないか。」とか云うことはしませんし嫌う(相手にしません。)のでその矛盾が必ずしも悪いということではなくそのような矛盾の意味は何かにつき考えます。

 思うことや考えることが存在ならば、それは自由意思ではないかとスピノザ以前の普通の思想は考えていました。
 スピノザはそれを引繰り返します。
 それを更に引繰り返して古典的発想に或る程度に戻したのがカントです。カントは思考と存在は非同一だとし、自由意思を肯定するのでスピノザとは真反対。連合国(UN)の考え方はカント哲学が基にあります。
 いわば日本を打ち負かしたのがカント哲学なので、日本が平和を愛好する諸国民に信頼するようになって八十年の今も連合国はどこか信頼できないと考える人々が多いのです。
 思考と存在は非同一、自由意志を持つ:その題目を理解できてもスピノザ的なるものがそれを違和感するのです。
 しかしその違和感は日本人にだけではなく西洋人などにも結構います。特にスピノザ的汎神論やその究極としての無神論が増す現代にあっては世界もかなり日本化して来ているのです。日本のアニメのファンが増えているのは汎神論のスピノザ主義が「復興」しているからでしょう。彼等には連合国を信頼しない或いは無用、自分の国は自分で守れという人も少なくない。
 いわば西洋的でありながら西洋を否定するようなところのあるのがスピノザ哲学と日本の四百年です。

 そして思考と存在の同一と自由意思の否定という矛盾に見えて矛盾でない摩訶不思議な思想は日本のマスコミ、報道やジャーナリズムと実に相性が良く、権力よりもその監視者等が主流の地位を占めている。
 どの新聞にもテレビにも同じように見受けられるような言い回しや論理がありますが、その源がスピノザ主義(その発展形態を含む。)。
 但しインターネット媒体だけはスピノザ主義が主流ではなくプラグマティズムが主流なようで、新聞やテレビがネットの話題と情報に頼るような離れたいような微妙な構えを維持しているのは両者の主流派競争(或いは因縁の抗争?)の反映です。
 安倍政権の時代の親反の根深そうな対立にもその構図が含まれ、例えば昨年にスピノザの解説書(冒頭の写真の岩波新書。)を出した國分功一郎教授は(「あんな人達」とはいわれない位に)典型的に反安倍。
 日本人の多数は安倍政治のようなものが本当は嫌い。
 反安倍的日本の標準はそれが日本の強味でもありますが昨今は特に、それが日本の弱味になっているし、何となくそう思う人も様々な意味で多くなって来ているので伝統的日本的ではない安倍政権が高い支持を得ていた。
 しかしそこは多数を取らないとならないのでスピノザ主義的なるものも一部に取り入れていた。特に官僚の援護射撃に多そう。なので政権やそれ支持する側の内にも頼るような離れたいような微妙な雰囲気がしばしば起こる。

 私は安倍総理と同じく(?)、スピノザ主義でもプラグマティズムでもない道教主義者なので、そのような当時の状況を何かほんとどうでもいいような下らないことと思いました、国会前のデモには行きましたが(支持政党がばれる。)。
 どちらかといえば反安倍寄りですが安倍政権にも幾らかは理解できるところもあるかなという感じ。
 まあ私は安倍さんのようにどこまでも正論(を言い続けておれば何とかなるわと思う)を語る人ではないのでその点は違いますが彼も基本思想は道教でしょう。どうでもいいようなこの国の思想抗争にまじに付き合った。

 先ず以て自由意思はないと思っておれば、総理大臣になりたいとは思わないでしょう。
 日本人には長になりたいと思う人がなかなかいないのはスピノザ哲学の自由意思の否定から来るものです。長として言動することには自由意思の肯定がないとなりません。
 ここで、長と指導者を区別します。
 指導者になるには自由意思の肯定は必ずしも要るとは限らず、自由意思を否定する指導者もあります。その典型は民衆主義、populismです。民衆主義は民衆の意志の通りに働くことが理想(或る程度の現実の違いはある。)なので、自由意思を少なくとも指導者自らにおいては極力否定することが特色です。

 スピノザ哲学が初めから民衆主義を志向していたのではないし逆に想定もしていなかったかもしれません。スピノザの生きた江戸時代の前期はフランス大革命まで「未だ」百五十年程もあります。しかし、三百年後にはプラグマティズムの影響によりスピノザ主義が民衆主義をその一部に含むようになります。汎神論が無神論を導き出すような歴史的変化です。

 自由意思の否定の考え方からすれば、自由意思を持ちながらその通りになることはない長の立場というものは単純に割に合わない話だということになります。シーシュポスのように登り坂に岩を転がすような不条理だと。
 それで割に合わすのだということならば先述のカント哲学などになります。例えばクレーンとキャブオーバー車があればできるとか。
 いわば、実際的観点からすれば、スピノザのいう自由意思の否定とは自分の思いというものはないといいながら自分の思い通りになるようにするという究極の企てを隠し持つといえます。
 そのような俗流の禅問答のような面白さがスピノザ哲学とそれに基づく日本の主流思想の特色です。
 そしてスピノザ主義には基づかない道教主義者の私も日本社会のそのような特色を知り尽くしているのでそれを世渡りの道具として利用します。例えば調査に「分からない・無回答」と回答するなどです。
 しかしどうも、良くも悪くも、多分悪くもなのでしょうが、そのような世渡りが通用しにくくなっているようで、故に偉大なる世渡り上手の安倍総理も殺されてしまうのではないか。

 で、スピノザの『エチカ』についての模範解答はこうです:

 スピノザはそこで存在行為を分けています。
 スピノザのいう存在とはエラスムスや安倍晋三などの肖像画のように、思うだけで行為のない状態をいいます。これはデカルトの「我思う、故に我あり。」、’Je pense, donc je suis.’を静的に捉えるものです。当のデカルトはそれを動的にいいます。
 行為を起こさない限り、人間は完全に存在するのです。
 しかし、行為を起こすことにより、存在は不断に変化します。

デカルトかスピノザか? 通して聴けば分かるかも。

 デカルトはその変化をも存在(の継続)といいますがスピノザはそれを存在の喪失と仮定します。行為を起こすことにより、一分一秒後の自己はその前の自己と同じではあり得ないからです。
 それを勘案すると、デカルトのフランス🇫🇷がカルトというものに如何に「不寛容」かが分かります(自分の名前も「カルト」なのに笑。)。デカルトにとり、行為による存在の変容は同一の存在の継続と見做されるのです。
 しかしスピノザにとり、一分一秒でも過去の存在は同一の存在ではなく輪廻転生なのです。
 一見は難しそうですが、色々な実例を見ると日本人には直ぐに分かるお馴染みの話で、故に日本は刑事責任能力などの責任の問題に関しかなり緩い訳です。
 スピノザ哲学の発祥の地オランダ🇳🇱などはそのような問題を後々に認識したからか、少なくとも日本と比べると緩くはなく、責任能力が存在しないということはあり得ないという前提での人権です。
 日本🇯🇵は人権の話になると責任能力はないという(ことの立証を図る)話になってしまうのです。
 何かあると直ぐに「魔女狩りだ!」などという貧困なる精神も、経済大国振りを誇って来た日本の強味の反面として存在する(いや、存在しないということなのか?)弱味であることはロシアの特別軍事作戦(ウクライナ事変)を巡ってもしばしば見受けられる日本のみっともなさです。

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