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マウスの取替、そして経済を考える。

マウスを10年振りに取替えました。

 前に使っていたのは2010年に購入のバファローコクヨサプライ(日本)製の有線USBマウス。
 これから使うのは2020年に購入のロジクール(スイス)製の無線USBマウス。

 従来と同じバファロー(但しコクヨは合弁事業を離脱。)のにするか迷いましたがロジクールの「安心快適スイスブランド」との売文句にころりと負けてロジクールのにしました。
 前のバファローコクヨのは色が白(トヨタマークXのようなホワイトパールクリスタルシャイン。)で、PC端末の色を問わずマウスの色は白が好いと思っているのですが今のバファローのには白がないようで、それもロジクールを選ぶ決め手になりました。
 また、大きさについていえば、マウスは小さめが良いと奨めます。大きなマウスは掌も指もその大きさに寄り掛かるように依存してしまい易く、手の遣い方は頭の良し悪しにもつながるものですし、小さめのマウスの方が頭のためにも良いです。

 マウスが新しくなると、コンピューターの反応も良くなり、PCのパフォーマンスの低下にはマウスが原因となる場合もあるのかなと思いました、知らんけど。

 日本人なので国産の製品が良くなることを望むものですが、私はヨーロッパの製品にはどうしても弱いです。
 携帯電話も、いまだにノキアのガラケーが一番だろうというような感覚があります。今欲しいのはアップルのiPadというタブレットPCでスマートフォンはあまり欲しくはないので、当時のような電話だけの携帯電話がまた出たら良いなと思ったりします。
 そういえば、近日にNTT DoCoMoがiモードを終えるそうで、私が二十年前まで持っていた携帯電話はiモードのでしたが、iモードはほとんど使いませんでした。

設備投資には消耗品も含まれる。

 「まだ使えるかもしれない。」と「もう買替えるべきだ。」のせめぎ合いはなかなか難しい事柄です。

 俗にいう生活感覚とやらで、設備投資というと企業の大きな機械装置のようなものばかりが想われ、マウスや歯ブラシなどのような消耗品は設備投資とは別の次元の事柄と想われがちなのではないかと思います。
 企業の機械装置を買換えることがうちの歯ブラシを買換えることでは味わえない非日常的感覚を催したりすることから、経済論が「企業の経済」と「家庭の経済」に分かれてしまうのです。

 或る種の会計論のように会計と家計を同一視することには疑問ですが(何しろ個人は借金をしない程に良い訳で、借金が必須の企業とは違います。)、財(goods)を買って使い、そして捨てるという一連の営みに関しては企業も家庭も違いはありません。

 安倍総理の話に拠ると、アベノミクスは成功しているが個人消費と設備投資がまだ弱いそう。
 ならず者が嘘しか言わない訳ではないので(∴私はアベノマスクをとても高く評価して大切に使っています。)、個人消費と設備投資が伸びていないという指摘は本当なのでしょう。そこで安倍総理が云いたいのはそれら以外は伸びているということでしょうが、それについては分かりません。因みに、一概にいってアベノミクスは毒にも薬にもならない、日本経済や民心を良くしても悪くしてもいないようなものだったのではないでしょうか。

 個人消費と設備投資、実は同じことなのです。異次元の事柄ではありません。

 人間はまず自分自身が生きてゆくことに責任を負い、また、自分の参加する社会に責任を負うものです。
 それらのどちらにも、自分達が生きてゆくにはどうしたらよいかという責任と判断が必要です。
 歯を磨かなければ歯が弱ることと会社の設備を修繕するなり買換えるなりしなければ事業が弱ることは各々の人の生涯に関わることです。

 安倍総理がそこまでを認識しながら指摘したかどうかは分かりませんが、個人消費と設備投資が弱いという現状は今の日本が自分のことにも社会のことにも責任を負おうとしないという情況の指摘ではないかと思います。

バス停の椅子は人にやさしいか?

 偶に見掛ける、バス停に置いてある椅子。

 それ専用に作られた広告入の長椅子ではなく、どこかの結婚式場の椅子が流用されたのではないかと思うようななかなか豪華な椅子やどこかの拉麺屋の椅子が寄付されたのではないかと思うようなごく普通の椅子があったりする。
 今までの時代はそういうものが古いものを大切にして人にやさしい粋な計らいと見られることが多くあったでしょう。

 しかし考えてみれば、結婚式場だろうと拉麺屋だろうと、そこに置かれている椅子はどこの馬の骨か分からないような謎の物です。
 近年はテロ対策ということもあってか、そのような正体不明な物が公共の場に置かれることはあまりなくなって来てはいます。椅子がある――「あら助かるわ。」と思ったら、そこには小型爆弾や化学兵器が仕込まれていたりするかもしれません。
 そうではないことを明らかにする(「見える化」をする)ためには、椅子なら椅子が、バス業者がそれを設置したことが分かるような表示をしないとなりません。
 物があるだけではなく、そこに正確な由来を示す表示があること。
 従来の日本は「スパゲティーナポリタン」や丸亀製麺などのように、物それ自体さえが良ければそこに付随する情報の正しさは問われないというような考え方が強くあったと思われます。「ナポリタン」はまだしも(私は「アメリカンスパゲティー」または「スパゲティーアメリカーナ」と呼ぶことにしています。)、丸亀製麺は付随情報の面でほぼ虚偽表示であるだけではなく物それ自体も一目で不味いと分かります。

 あまり好きな言葉ではありませんが、「小さな親切、大きなお世話。」を地でゆく(場合もあるかもしれない)のがバス停の椅子。

 そんなことより、結婚式場や拉麺屋などの椅子が傷んだり要らなくなったりしたらきっちりと買換えられて廃棄されることが大切なことです。
 たかが椅子と思うかもしれませんが、椅子も自分の命を支えているのです。

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環境のためにも経済 

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 従来は、経済成長は地球環境の脅威になるので人間は経済成長を抑え若しくは経済成長とは異なる価値を創出しなくてはならないといわれていました。

 私も地球環境は昔も今も変わらず重要な事柄だと思うし、レジ袋を有料にすることも支持しています。

 しかし地球環境のために経済成長を抑制し若しくは断念するべしという説には単純な誤りがあります。
 それは地球環境を守るための費用がどこから出るかということです。
 経済と税という制度が万古不易の原理であることからしても、経済成長がないと地球環境を守ることはできません。
 近年は低成長だが環境には良いだろうという見方は誤りで、低成長の今はそのための費用が出にくい故に環境のリスクが高い状態にあるでしょう。

 尤も、'60年代の高度経済成長や'80年代のバブル時代のような経済成長をこれからの時代にも求めることはできません。
 余談になりますが、高い経済成長は発展途上と戦争の状態においてしかあり得ません。日本が発展途上国ではなくまた戦争を放棄する国である以上はそれらのような高い経済成長を望むことはもはやできません。

 古い物が新しい物に取替えられて古い物が廃棄されるためには素材の再生などが行われることにより環境を守るための制度や技術が必要になります。
 平成の時代を通してそれが著しく発達しているかのように見え、確かに或る程度はそうですが、経済成長がないことにより、その成果は望まれているより小さいのではないでしょうか。にもかかわらず、低成長こそが環境を守ると勘違いされているようです。

 企業が設備投資を渋り、家庭が歯ブラシも碌に取替えないことから、企業も家庭もそれらの内部が滞り或いは不潔になるだけではなく、外部をも貧しくしている。
 貧しくなるだけではなく、老朽化などにより危険な物が増えることから、安全安心をも脅かすことになっている。

 尤も、権力や経済関係の非対称性や勾配というものもあり、家庭が消費を渋ることは当面の身を守るためには仕方がないかもしれません。
 家庭と比べ強い立場にある企業が設備投資を怠らないことがほぼ常に求められるし、テレワークの普及の可能性などの「コロナ後」論などをしている場合ではないでしょう。
 コロナ禍が過ぎ去ろうとより脅威を増そうと、「コロナ前」からの問題は継続するのです。
 どうも「コロナ後はコロナ前には戻れない。」というような言説は、逆に、コロナ前からの諸問題をうやむやにしようとするかのようなものが見えて感心できません。 

#経済 #日本経済 #設備投資 #消費 #アベノミクス

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