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スピノザ哲学と日本の弱み:日本の三大思想:スピノザ・プラグマティズム・道教 その3

 スピノザはフランスの近代合理主義の祖ともいわれるデカルト哲学を批判的に継承しました。
 その批判的継承というのも日本人の家芸というか、良くも悪くも日本人好みのするやり方です。
 要は、それは役に立つ、使える、でもそこはちょっと直してから使うということです。後出しじゃんけんともいいますか。
 哲学の業界では先発が西のデカルトで後発が東のスピノザで当時も今もどっこいどっこいですが自動車の業界では先発が東の日産で後発が西のトヨタで今はトヨタが日産を大きく上回っています。
 最近に日産がフランスのルノーの傘下を脱して念願の再独立の状況になりつつあるという報があります。世界一のトヨタは日産が既に踏み出している電気自動車、EVへの転換が未だ見込めずに衰退が懸念されています。

 最新型のトヨタヤリスを初めて見た時には何か今一つだと感じました。
 最近に最新型の日産ノートを見てかなり良い出来ではないかと感じました。
 しかし、その直後にトヨタヤリスを見るとめちゃ美しいと感じました。
 日産車がトヨタ車の印象をアシストしているよう。
 :いわばトヨタはデカルトで日産はスピノザ。
 デカルトだけを見ると何か今一つに感じ、それよりスピノザが良くねと思ったりするのですがさて、両者を並べて見るとやはりデカルトは良い。スピノザによる批判が寧ろデカルトの真の魅力に気づかせるのです。

 日本の産業や社会もそのように批判的継承、即ち部分的手直し(他社のものも自社のものも。)の応酬、即ち改良主義で成り立って来たようなところが大きく、その強みもありながらしかしそれだけで良いのだろうか、それが弱みでもあるのではないか。
 尤も、批判は許さないというのも駄目だし全面批判も駄目。
 手直しをする部分の範囲と方法が可変、valuableになることが必要では。電気自動車の時代になればそもそもVVT-i(電子制御可変弁時間調整)もなくなりますが。

 スピノザによるデカルトの「我思う、故に我あり。」、’Je pense, donc je suis.’の論理構造の批判はトヨタ生産方式の「なぜを五回繰り返す。」ということの二つの考え方とほぼそっくり。
 旧来の正統派のトヨタ生産方式の考え方は、その字義通りになぜという原因の追究、問いを五回繰り返すということ。それはデカルトの結果を原因に遡り論理する分析的方法に通じます。
 しかしそれができない場合がある、分析が適わずに堂々巡りになることがある、真因が見つからなかったりするということで、トヨタ生産方式のもう一つの新しい切口として「何が問題なのかを五回繰り返す。」という考え方が生まれました。
 前者の分析的トヨタ生産方式にとっては何が問題なのかは現地現物から一目瞭然ということになりますが後者のスピノザ的ともいえる総合的トヨタ生産方式は問題そのものの認識が適切かどうかから問うべしとなる。何が問題なのかを先ず明確にしてからその改善の途筋を順序立てて望ましい結果を導き出す。
 その総合的方法は現代的で格好の良い方法ですが弱みもあります。
 始点から終点順序立てて考えるやり方は後戻りが出来にくい、若しくは後戻りすべきとも気づかないか気づいても白を切るという事態が生じ易い。その典型的現れが2009年のフロアマット事件だったのではないかと考えられます。
 何が問題なのかを五回繰り返して考えてもそれが分からなかったり体裁の良くない文面にしかならなかったりするとやはり何も問題ではないという結論が導き出されてしまう場合もあり得る。
 終点から始点遡る分析的方法は古くさいようでも、初めから後戻りで考えるので新しいことになかなか踏み出せずに保守的になり易いとはいえ後戻りが出来なくなったりラインを止めなくなったりすることがありません。新しいことにしても、寧ろなかなか踏み出せずにいるほど踏み出せる喜びや責任感も大きいのではないでしょうか。
 新しいことをどんどんやるとともすれば飽きて来ていつしか立ち消えが続発し、後に残るのはとんでもなく守旧なことばかりだったりする。故にも日本経済の再生をイノベーションに賭けることは間違いと思われます。殊に近年のイノベーションはLED照明のように消費需要を減らす傾向の強いものばかりなので便利で家計に易しくはあれど経済成長には結びつきません。

 一頃の(今も?)暴走トヨタだけではなく近代の日本社会や日本国家にしばしば見受けられる後戻りのできない、止めない暴走状態はスピノザ哲学の総合的方法の過信から来るのではないか。更にそこにプラグマティズムの不都合なるものの捨象や自由意思と自己責任の過剰が加わると破滅社会の完成になります。
 日本以外にもそのような現象は多々あり、日本人に特有の性質ではありませんが日本はそれが一部の人々の混乱に留まらずに国の全体をも動かしてしまう何らかの仕組みとその運用の意思が存在しているのでしょう。

 スピノザのような美しく知的で平和的な思想が破滅的混乱につながることがある。彼を破門したユダヤ教はそのような帰結をも見通していたかどうかは分かりませんが確かにユダヤ教と中核的ユダヤ人の嫌いそうな感じはします。
 スピノザが擁護したのは当時にキリスト教に改宗した傍流のユダヤ人で、理神論やフリーメイソンなどの後の新しい潮流の担い手です。日本人も基本的に理神論やフリーメイソン的なるものを好みますね。

 スピノザとデカルトのもう一つの特色に同義反復の許容というものがあります。
 デカルトの「我思う、故に我あり。」はそれそのものが同義反復です。
 スピノザはその論理構造と表現との矛盾を問題視し、「思う我が存在する。」という「故に」などの接続詞のない構文に書き換えました。
 スピノザが問題視したのはそれが同義反復なことをではなく同義反復なのに接続詞で構成される故に潜在的に三段論法を構成しており、突込まれ易いという言葉の形式の問題です。
 同義反復ならそれらしく「思う我が存在する。」という疑い得ない事実を真実として提示すべしという。
 それ、実は日本の新聞や国語論者の大好きな論法語法です。
 よく、接続詞をなるべく遣わずに書き給え又は話し給えと教えられることがありませんか?
 「しかし」:駄目ー。
 「そこで」:駄目ー。
 「それから」:駄目ー。
 ところが「さて」や「さあ」などの間投詞は大好きで、「G万全 さあ開幕」と来たもんだ。
 その理由は突込まれることを避けるため。
 何で「しかし」なの?、何で「そこで」や「それから」なの?などと反論される余地をなるべく少なくする。
 反論されることを必ずしも嫌う訳ではなく、反論されたい所で反論される(されたくない所でされない)ように突込み所を誘導しておくのです。実は私も時々その手を試みる場合があります。
 相手がまんまとそこで反論すると自論に有利な展開を作り易くなる。
 接続詞は反論の誘導や予測がしにくくなります。どこからでも掛かって来いとかそもそも議論や質疑応答が目的ではないという場合は接続詞だらけでも良いです。

 因みにこれがややこしいですが、プラグマティズムは同義反復を嫌います。同義反復をしたら反則負けというような議論観なので土井たか子さんの「駄目なものは駄目。」など以ての外、ああいう政治家や党は絶対に信用してはならないとします。なので本当は小泉純一郎総理も同義反復が多くて嫌いなのですが支持率が高いし選挙にもでら強いので利用してやろうという感じ。純一郎総理には拍手喝采を演じても進次郎には冷やかですね。
 プラグマティストにとっては故にデカルトもスピノザもタレント議員のようなもので哲学ではない。
 しかしスピノザ主義は日本の主流派なので、小泉総理のように利用する。
 プラグマティストも接続詞をなるべく遣わないようにします。
 一つは、スピノザ主義的見地と同じく反論を予め避けるためです。実に使える手なのです。
 もう一つは、接続詞を遣う言葉とその語り手を理屈ぽくて意地汚いと罵倒するためです。そのように言う自分がもっと意地汚いと誰に見られても計算の範囲内で一向に構わず、相手が弱いという印象を持たせられれば目的が達せられます。寧ろ、絶対値的強さの訴求は自分が絶対値的に強い小泉総理を利用するようなことからの投影的推測で、自分が利用されることにつながりかねないのでしません。あくまでも自分が強いということを訴えるのではなく他者を弱く見せることが常套。
 「我思う、故に我あり。」については「思ったらあることにはならない。」や「存在しない架空の人物が何かを思うという現象はどう説明するのか?」など。存在しないこと(無)と実在しないこと(架空)は異なる概念なのですが架空という語を存在しないという異なる語にすり替えていますね。

 日本の新聞などの強みもそういうことにあった訳ですが近年はそれが弱みになっているようです。
 新聞のみならずスピノザ主義を主流とする日本の強みは想定の範囲外の外在的変化若しくは支障の生じない限りにおいて高度の安定と利益を生み出すことと基本的に自由で寛容なことですが今は想定の範囲外だらけですし、そもそも情報手段の私有化が勧むことにより情報価値のインフレの情況(貨幣価値とは逆に。)。新聞の情報価値が吹けば飛ぶように軽くなりつつある。
 そんな中、貧すれば鈍すということもあり、不自由や不寛容が広がる。
 日本人に広く普及している総合的方法から来る物事の後戻りのしにくさ、工程の止めにくさがその風を更に強めている。
 そうなると日本は分断を避けることではなく積極的分断により既成のスピノザ主義的価値観が幾つかの大きな形に分かれてより深まるなど(民間社会における野党ブームみたいな。政党はもっと減らないとですが。)しないと安定や繁栄、平和を取り戻すことが出来ないでしょう。

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