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女性差別⊆差別⊇とんねるず?――それは真に差別なのかという問題
最近に、というか昨日からですが、一つ決めたことがあります。
それはとんねるず語をやめることです。
私がとんねるずを知ったのは1985年(昭和60年)で、――とんねるずの見参は1980年(昭和60年)――10歳の頃。
それから34年に亘りとんねるず語を遣っているのかというとそうではなく、とんねるずを好きでしたが初めの十年程はとんねるず語を遣ってはいませんでした。大学生の頃から少し遣うようになり、社会人になって暫くすると遣わなくなりましたが四十歳の辺りになって多用するようになって今に至ります。
そうなのは偏(ひとへ)に私がとんねるずより少し下の世代で、とんねるず語のmain or heavy usersは私より五年程上の世代だからでしょう。私が当時の彼らの年頃になった頃に遣うようになり、終始light userだった。あまり多用すると先輩世代に取り入って威を借りているかのように思われるかもしれないという無意識の計算もあったかもしれない。
はやりの言葉や様式には良くも悪くも同調性があります。
とんねるず語なら、とんねるずが生み出す価値とその世界に同調したいということで、自分が好きでするのであってそれを他者に求めはしないならばそれは同調圧力ではありません。
しばしば、何人もの人が例えばとんねるず語を遣うようになるとそこには同調圧力が存在するという人が見受けられますが、それだけでは同調圧力は生じません。単に遣わない人が少数になっている状態なだけです。「え?遣わないの??、遣わなきゃ駄目だよ!」みたいなのを同調圧力といいます。――あ…、決めたことを破ってしまいました。自分でスリッパ。
多数派の専横を防ぐことと少数派への圧力を防ぐことは別の問題であり、問題を切り分けて考えるべきものです。しかしそれらがしばしば一緒くたなままに同調圧力を含む権力と権理または人間の名誉や尊厳の問題について考えられているようです。多数派の専横が強まっておらおら感やどや顔感が増せば必然に少数派への圧力が生じる訳ではありません。
尤も、とんねるず語を遣う人々と遣わない人々、どちらが多数なのか少数なのかは本当の処は分かりません、文化庁の調査を俟ちましょう。
只、とんねるずの黄金時代を知らないより若い世代が社会を担うようになって来ている今の情勢に鑑み、別にどちらでもよいことなのですが、とんねるず語をやめる決意をした訳です。
長くなりそうなので続は次の記事に――今時のテレビのように引張る。ヒッパレ。――。
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