「一輪の花からでも学ぼう」という危険性
数年前ある先輩経営者が言った「どんな経験からでも学ぶものはある、道端に咲く一輪の花からでも学ぶ姿勢は大切なのではないか」という言葉に非常い感銘を受けた。
そこから僕は「道端に咲く一輪の花からでも学ぶべきなのだ」と口癖のように言っていた。
しかしその結果期待していなかった方向、つまりは残念な方向に向かっているということがわかってきたから備忘録として記しておこうと思う。
一輪の花からでも学ぶ姿勢
一見するととても素晴らしい言葉だ。
というかこの言葉自体に害は全くなく、どんな出来事からでも学ぶことはたくさんあると思う。
例えば先日あるビジネスの集まりに呼んでもらったのだけれど、結論から言うと得られるものが少なかった。
事前になんとなく「学びが少ないかもな」と思っていたもののそれこそ「一輪の花からでも学ぶものがある」と思い出かけて行った。
結果そこから学んだのは
・自分で学ぶ場所は選ばなきゃダメだ
という教訓だった。
もちろんその集まりに行かなければこの事実に気が付かなかったかもしれない。
つまり僕は「一輪の花から」無事に学びを得て帰ってきたのだ。
こんなふうに何をやっていても「タダでは終わらないぞ」というのが一輪の花からでも学ぶ姿勢だろう。
しかしそこには大きな、大きな、そして当たり前の落とし穴があった。
一輪の花の落とし穴
その落とし穴に気づいたのは、その集まりから帰ってきてすぐだった。
つまんないながらも自分は「今日も学びを得たぞ」と意気揚々と家に帰ってきたのだけれど、寝る準備をして寝室に入った。
そこには天使のような寝顔の娘がいた。
小学生の娘がなんだか昨日よりも少し大きくなったような気がして「成長って早いな」とか考えていた。
そしてふと気がついた。
今日一輪の花から学んだことは、娘と過ごす重要な生命時間を消費してまで学ぶべきことだったのだろうか?
一輪の花はどんなところにもある。
どこにいても学ぶことができる、しかしそれによって「失うもの」があるとは考えてもみなかった。
学びは常にポジティブで、自分の成長の助けになる。
しかし一輪の花に学びを乞うている間に着々と娘は成長し、娘から日々学ぶこともとても多いはずなのに。
そして「パパ大好き」と言ってくれるあまりにも短い時間を今生きているというのに。
自分はわざわざ進んで「一輪の花に」教えを乞うていた。
花自体が悪いわけじゃない、学ぶ姿勢が悪いわけではない。
ただそれによって「学べなかった花」もあるということにもっと早く気づくべきだったのだ。
学ぶ花を選ぶ
一輪の花からも学ぶ姿勢を持ち続けた結果、自分は知らず知らずのうちに一輪の花を探すようになってしまった。
下を見て「ただ道を歩くなら花を探そう」としていた。
しかしよくよく考えるとわざわざ道端に咲く花を探さなくてもいい。
自分が普段行かないような場所に行って学んでもいいし、コンフォートゾーンの外にあるものからどんどん学べばいい。
にも関わらず毎日毎日一輪の花から学んでいると「今日も学びがあった」と思い込んでしまって、本来もっと学ぶべきものを見落としてしまうのだ。
自分たちの人生の生命時間は限られている。
わざわざ一輪の花を探していきいる時間はない。
もっともっと大きな花や、経験や、世界から学んだ方がいいのは明確だ。
仮にそうしているときにふと見つけた一輪の花」から僕たちはさらに学ぶことができるのだ。
それから
それからというもの自分は学びたいものについて「待つ」のではなく自分で選んで学びを取りに行くことにした。
普段だと声をかけない先輩の経営者さんに会いに行ったり、普段だとやらない事業を積極的に考えてみたりした。
そしてそこで足りないものが見つかるとまた自分でどうやったら学べるだろうかと考えて前に進んで学んでいくことにした。
そうするとどんどんと見たこともない景色が見えるようになってきた。
したばかり見て学んだ気になっていたけど、上を見たらまさに世界が広がった瞬間だった。
そして少しずつ毎日が充実していった。
「確実に、成長している」
そう実感ができるようになってきた。
そして家に帰ってきて、娘の寝顔を見つめるとまさにそれが「一輪の花」だと気づいた。
大きな学びの合間に、ふと腰を下ろしたそんな場所に咲く一輪の花からは学ぶものが本当に多い。
これからも自分に足りないものをどんどん選んで学んでいこうと思う。
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