向き合い方、かかわり方


このノート、Xに実際あげることは多分無いんですけど、自分の言葉の吐き捨て場にできるから凄くいい場所だなって気付きました。

言葉にして相手に伝えるより書きたいことを誰かに見せる前提の語り口調で書くとよりまとめられるから、人に伝えるのが苦手になってしまう私にとっては良いコンテンツです。








「生きてるだけで、愛」っていう躁うつ病の寧子を題材にした映画をご存知でしょうか。

何となく客観視できるかなと思い閲覧してみました。安易な気持ちでみましたが、想像以上に映画を見た後、言葉にならず、ただただ涙が止まりませんでした。

心が抉られたような感覚で、色々重なるところもあれば重ならないけど思い出したりと、自分で比較して凄く心打たれた話を少し掘り下げて。



 


主人公、寧子は躁うつ病なのですが、まずニートなんです。でもやりたいって気持ちはあって、頑張ろうって動こうとはしているんです。

形には残せなかったけれど、バイトに申し込んでみたり、彼氏の為にご飯を作ってあげようとしたり。

だけど、彼女の場合は過眠症なこともあり、中々思うように起きられなかったり、1つのことをやり遂げるために集中しすぎてしまい、ブレーカーが落ちたとか、買い忘れとか、複数重なるといっぱいいっぱいになってヒスを起こしたり。

やろうとすればやるほど空回りしちゃうんです。頑張ろうって気持ちは誰よりもあるし、現状を変えなきゃって分かってるのも寧子自身なのに、それを目に見える形で行動に移せないんです。

甘えてる訳じゃないからこそ、バイトにも行こうとするし、ちゃんと行けなかったことに悔やむし、やり遂げられなかったことが悔しくて涙するんです。

本人はやらなきゃいけないってわかってるから。でも健常者が普通にできることをやる為に莫大な苦労が必要なんです。寧子自身も、劇中で「普通に夜遅くに帰ってきて遅く寝ても朝早くに起きて仕事に行ける。私にはそれが出来ない。なんで難しいんだ」的なことを彼氏に言うのですが、本当にその通りなんです。

他の人ができて当然な事が自分にはできないんですが、明確に身体に症状が出ているわけではないから、他者からの理解が得にくいんです。

寧子しかり躁うつの人にとって、普通の人と同じに立てたことを認めて貰えるって行為は計り知れない喜びなのです。

だからこそ、劇中でも寧子はバイト先の女の子やお母さんに何度も「私、この場でもやっていけそう?」と聞き、それに「やっていける」って共感して貰える度に嬉しそうな表情を浮かべていたのだと。

そして、寧子はその頑張りを誰よりも大好きな彼氏に認めて欲しかった。でも、そんな彼氏は裏側で仕事が忙しく、話すら聞かずに寝ていってしまう。

私達は物語を客観視できてるからこそ彼氏の気持ちもわかるし、正常状態ならそれも受け入れてじゃあ次の日に話そう、って切り替えれるのだけれど。躁うつの人にとって仕事を頑張るって言う大きな一歩について認めて、もっと褒めて欲しかったんだと思います。相槌だけじゃなく、褒めて欲しかったのだと。

仕事でも1人だけやっぱり違うんだって、疎外感を感じさせられる雰囲気になってしまって。寧子は躁鬱の中でも敏感すぎる方な気はしていますが、私自身も寧子のように一言一句、健常者にとっての何気ないひと言が重く刺さり、深く傷つくことはよくあります。

トイレ破壊とか寧子はやりすぎてしまうのですが、私ももし、自分が疎外感感じるようなこと言われたら、その場をやり過ごして後で病んでバイト飛ぶくらいはしそうだなとか思いながら見てました。

その後の屋上での台詞。一つ一つが深く刺さりました。

まず、「あんたの選んでる言葉ってあんたの気持ちじゃなくて私を納得させるための言葉でしょ。」

辛いこと言われたら傷つく癖に、でも嘘言われたら嘘言われたで辛いんですよ。相手にとってはそれが優しさなのかもしれないけれど、私自身も思うのですが、結局後でそうしないと月姫は怒るでしょ?とか、月姫の為を思うと面倒だと思っても言わないのが吉じゃん的な事を言われると、自分自身は傷つくんです。それがまた相手はの信用出来ない気持ちを生み出していく。私と同じだけの熱量で喋ってくれないと、好かれてるかも分からないからこそそれを求めたくなる寧子の気持ちは分かる。

次に、「バイト先にいけると思ってたのに急にどうしていいかわからなくなっちゃって……」。

何がなんでもあの場所を守ろうと思ってた、大事にしようと思ってた、寧子自身にはその気持ちがあったんです。病気の自分を受けいれ、優しく面倒見てくれたバイト先の方々に感謝してたんです。でも、後で冷静に考えたら自分でも大したことないような話でつい考えすぎてうわぁってヒス起こしちゃうんです。私も本当に大事にしたい相手なのに、大したことない話を引き金に大きな喧嘩巻き起こしちゃって後で後悔するんです。後になったら冷静になったら、大したことじゃなかったって、誰も悪くなかったって分かるのに相手のせいにして抑えきれなくなっちゃうんです。いつも頭おかしいくらいに怒るじゃん、なんで怒ったか分からないの。が全てなんですよね。本人にもほとんど記憶ないくらい振り回されちゃうんです。病気に。

「どうせ、この後また鬱がくるんだって思ったら、どうしていいか分からない。」って言うのも、寧子自身が楽しめなくなりどんどん不安を抱えて生きていく理由の大きなひとつなんですよね。私もいつ来るか分からないから常に一緒に居る時間100楽しめなくなってしまって。普段から、愛情確かめる行為を辞めれないって言うか。どうやったら好かれるか、好いていてもらえるかだけを考えちゃうんですよ。1番はやっぱり嫌われたくないから。

極めつけの刺さりセリフは「別れたかったら別れてもいいけど、私は私とは別れられないんだよね。一生」。

相手を責めるわけではないんですけど、心の中にはこれがあるんです。私は私という存在と一生別れられないんです。私はこの病気をキッカケに皆が離れていくことを止められないんです。とめたくても。頑張るから、離れないで、としか言えないんです。

頑張れる保証なんて自分自身いちばん無いのに。頑張ろうとすればするほどその後にくる大きな鬱の波が怖いのに。でも自分じゃなくて持ちたくない病気が悪かったとしても、"それ"とは共存していかなきゃ行けなくて。"それ"のせいで相手は離れていっても自分とは切り離せなくて。

まぁ離れたところで私は完治するわけないんですよ。病気なんで。マシになってもいつか必ず再発する。何が引き金になるかもわからないんですけど、そんな怖い世界で一生生きなきゃいけないんです。

なぜ一緒にいてくれたのかも深かったです。躁うつだからこそ躁状態の綺麗な時をもう一度見たかったんだって。うつ状態の自分が相手に好いてもらえるわけないのに、相手の好きな自分になろうとすると難しいんですよ。自分でも。

だから、離れるを選んであげるしか出来ないんです。そして一緒にいたいならあくまでも自分のせいだから、自分を犠牲にすることしか出来ないんです。相手に頑張りをしいたくてもそれ以上求めたらまた嫌われちゃうんです。

頑張るので一緒にいてください=相手が最後のチャンスをくれてやってる状態な訳で。そんな状態で対等に元の状態に戻って付き合えるわけなんてないんですよ。お互い一緒にいたいって思える日がもう来ないって思うと、自分が頑張りきれなかった時にお別れの針が進んでいくだけの状況にずっと居なきゃいけないと思うと、辛いんです。

ただただ寧子も思ってたとは思いますが、私も純粋に自分自身を好きって言って欲しかったし、「頑張るって言ってるからいてやってるだけで、もう限界だから君次第で終わっても構わない」とか思って欲しくないんです。でも、もう戻れないんです。病気を持った自分のせいで。

純粋に好きだって言って一緒にいて欲しいのに、普段も嘘だってしか思えない自分が1番嫌なんです。何回も好きか聞かないと安心できない自分が、くっついていないと不安な自分が。でも確かめる愛情を求めてるから余計面倒くさいって嫌われるんですよね。

あの映画一般的な思考の人が見たら、寧子きもっ、いい加減にしろよ、抑えろよ、って。なんなら見るの疲れたからもう終わりたい、面白くもないやんで終わりなんですよ。なんか客観視すると、私もそう思われてるんやろうなってなって余計辛かったんですよね。一般的な思考の人の言葉1番想像してたら刺さります。

はぁ、辛い。こんな事考え出すと、映画見たあともただただ涙が止まらなくて。同じ境遇って訳では無いし、私は便座壊さないんですけど。そういう訳じゃないんですよ。

一歩間違えたら私も全裸で街駆け回りそうなくらい共感できるシーンが多いのが問題なんですよ。後、関わり方。

うつ病のシーンは理解できる、できないあれど、最後の言葉は全部刺さりした。





こう見るとやはり関わり方って難しいんですよね。正解がない。元にはもう戻れない。でも、好き。

全部を好きになってくれる人なんていないと思うけど。心から好きだよって抱きしめてくれる人に出会える日なんて来ない気はしてるんですけど。

上手く生きられる世の中になりますように。



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