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僕は僕として生きる。生きたいと願う心があるから僕は生きている。 田中 慧日記 #9

なぜ生きている?そんなことを考えたことはないだろうか。

僕はある。自分自身の何度も問うた。それ以外にも多くの問いを自分に浴びせた。切実に悩んでいた。

心臓の問題でサッカー部のマネージャーになった時
なぜマネージャーなのか?
僕のいる意味はなんだ?
自分の役割はなんだ?
受験の時
この勉強がなんのためになるんだ?
どう繋がっているんだ?
なぜ大学いくんだ?
大学入学・在学時
僕はなぜ大学で学びたいのか?何を学びたいのか?
僕は何をやりたいのか?何をやり遂げたいのか
何のために自分は生きているのか?
生きるってなんだ?
ふるさとワーホリの時
なぜこの事業をやるのか?
何のために、誰のためなのか?
僕にとってどんな意味があるのか?
Barをやる時やっている時
なぜBARなのか?
何のための誰のための場なのか?
なぜ自分は言ったことをやれないのか?
なぜ僕は決めることができないのか?
以前ある女性とお付き合いしていた時
なぜ命を断とうするのか?
なぜあなたに価値があるってことが伝わらないのか?
僕はみなみが好きなのか?
なぜ分かり合えないのか?
葵と付き合っている時
僕はなぜやらないのか?
愛するってなんだ?
自分は葵とどうありたいのか?
僕はどうしたいのか?
母との関係の時
なぜ甘えてばかりいるのか?
どうして僕は目を背けるのか?
なぜ母を想像できないのか?
母にどう在ってほしいのか?
父との関係の時
なぜあなたは父なのか?僕はあなたをどう思っているのか?
なぜあなたが怖いのか?何に恐れているのか?
なぜ父と対話をしようとしないのか?
父とはどんな関係を望んでいるのか?

大小さまざまであるが、とてもパーソナルな問題だけを取り上げた。
僕はこんな問いを胸に抱えていた。

けど、僕はこれらに真剣に対峙してきたのだろうか?

悩む。悩む。悩む。それでも僕は自分なりの解を叫びながら断定する。

いかに僕がこれまで個人的なことに悩み、小さな社会のことを悩んできたのか。ただ悩み続けて、答えを出さないでいたのか。

これらの問いに対しての「断定」した「私」の「正解」、すなわち表明とその表明に対する態度に対して、ある人は「愚人」と言い、ある人は「賢人」というのだと思う。

Aということを言う人もいれば、Bということを言う人もいる。
Aという表明はA'の社会では正解かもしれないし、Bという表明はB'の社会では正解かもしれない。ある表明は、ある社会で受け入れられるものであり、他方では受け入れらないかもしれない。もしかしたら誰からも賛美を受けるような表明や態度があるかもしれないけど、全員から受け入れられる絶対解はないと考えている。宗教だって、世界を見渡せば、キリストを信じるのか、信じないのか、ムハンマドなのかなどで今もなお争い合っているのだから。

だから、どんな社会で、どのコミュニティーで、どんなスタンスで、どんな態度で、生をどのように活かすかは自分次第なのだ。生き方は人間の数だけあるんだ。だから悩む。けど僕は僕自身に問い続けたい。どうするんだ?僕はどう生きたいんだ?今はそれで満足か?自分を受け入れられているか?と。

 我生きんと欲す、故に我あり」

「なぜ生まれてきたのか?」
「何のために生まれてきているのか?」
「なぜ生きているのか?」

こんな問いを、僕は暴力的に、ある時期問い続けていた。
そんな問いから逃れるように生きた。
僕は自らの価値を確かめたかった。
自分は生きている価値のある人間なんだと信じたかった。

その結果、僕はいつのまにか見せかけの鎧を纏うことを選んでいた。自分の不安や強迫観念や恐怖から遠ざかりたくて。方法を間違えたと今では思っている。

僕はさまざまなものを試した。
けどこの問いが頭から離れなかった。何のためにやるのかさえわからなかった。僕は阿呆だった。切実で、でも逃げたくて、逃げ続けてきた。

分からなかった。自分を測るものさしが欲しかった。
社会では、機能的なものさしがある。医者ならば医術が、プログラマーならプログラムのスキルなど分かりやすい物差しがあった。ただその意味で言うと、僕は今無能だった。無価値と断定せざる終えなかった。そうして歯を食いしばって能力獲得を目指すと言うよりかは見せかけや虚構頼りになっていくのだった。苦しかった。

そんな時、ある本を読んだときにこう書いてあったのだ。

 我生きんと欲す、故に我あり」
加藤諦三「生きる」p36

僕はいいかげんな人間だ。

「何のために生きているのか」と考えながら、僕は生きている。そんな矛盾を孕んでいる。
そんな問いを考えながらも好きな音楽を聞けば心踊るし、人と通じ合ったかもと繋がりを感じれたら心がぐわっと嬉しくなるし、夕陽をみて涙を流すこともあった。

「生きる意味の分からなさ・曖昧さ」と併存して、僕は確かに生きていると言うことだけは分かった。生きている。僕は生きている。生きようとする心が併存していることがわかった。

僕は今を生きようとしている。
生きたいと願っている。

それだけは確かなことだとわかった。

生誕に僕の意志は存在しない。だから生まれてきた意味なんてないよ

なぜ僕は「なぜ生まれれてきたのか」が分からないのか。

それは僕が僕自身の意志で生まれようとして生まれてきたわけではないからだ。僕が生まれてきた原因は、僕たちとは関係のないところで起きた事象であり、奇跡だったんだ。

例えば、受験勉強で浪人して早稲田を目指すようになった理由は、僕自身が最終的に決めたことだから説明ができる。大学に入学したいからだったし、父親を見返して自分を証明するためでもあった。

一方で僕の生誕は、僕に原因はない。

僕の生誕は、母と父の意志あるいは行為で生まれ落ちた。精子と卵子の結合からだ。そこに僕の意志はなかった。僕の自我は生まれ落ちる前も生まれ落ちた後も少なくとも顕在意識としては記憶に全くないんだ。

ここから僕はわかった。

自分が原因になっていないと、その目的を知ることはできないんだ。

ただそれだけの事実だ。

僕らは生まれ落ちて、生まれ落ちたくて生まれた訳でもないし、この家族を選んだ訳でもないし、日本人として生まれ落ちたことを望んだ訳でもないし、日本社会で生きることを選んだ訳ではない。

これが事実なんだ。

分からなくて当然なんだ。

ただわかっていることは、
今僕は生きている。生きたいと願っている。

人生の目的が何かなんて分からないながらも生きている。何のためなのかわからなくなって、誰かと恋することの喜びと会えない切なさを感じるし、新鮮な空気を目一杯吸って心地よく感じするし、誰かの痛みに触れた時に痛い気持ちを感じるし、分からなさへ苛立つこともある。そして、美しいものに涙をする。喜んだり、悲しんだり、嬉しかったり、寂しかったり、楽しかったり。そんな気持ちがある、と言うことだけはわかるんだ。

僕は生きている。

加藤諦三さんの本の冒頭で僕は涙を流した。

マルコ・ローランの「生きること、そのために」だし、「生きんと欲す、故に我あり」だ。

僕は生きている、生きたいと願っている。

それを僕の出発点にしようと思ったんだ。

「人生の意味なんてない。」だから意味は自ら創造するんだ


「人生なんて意味ないじゃんってわかったんだよね。意味つけ放題じゃんって」

そう気仙沼のある人が言っていたのが腑に落ちた。

「何のために生きているのか」ということを発見しようとしても一切の努力は必ず失敗するだろう。我々にできることはただひとつ。「我生きんと欲す、故に我あり」という確実な一点から出発して、自らの生を想像することである。
加藤諦三「生きる」p39

僕は自分の人生の目的や意味を自分で見出すことに決めた。誰かに縋るのではなく、僕は僕で考えて、答えを出すことに決めた。自分の生き方を他者に聞くなんて嫌だ。僕は以前「どうすればいいですか」なんてことを聞いていた。馬鹿。阿呆。本当に馬鹿野郎。自分で自分のこと決めなくて、どうして僕は僕で生きたいなんていう理想言えるんだよ。この愚か者が!

ただそんな弱さもあるのも知っているんだ。だから僕のような人間に寄り添えるかもしれないって思っているし、もしかしたらそんな役割もあるのかもしれない。僕は僕のルーツがあるし、辿ってきた道がある。痛い思いもしてるし、逃げてきたと思う。だからこそ、だ。レールなんてものは最初から存在してないよ。僕は僕の生活やその態度が、誰かに影響を及ぼす。良かれも悪からも及ぼす。僕は出来れば、何かに貢献したい。僕のわがままなエゴと愛の境界線は曖昧だけど、僕は自己実現もそうだけど、社会実現もしていきたい。そう思っているんだ。

僕の人生は僕が意味を創造する。
他の人のお伺いなんて本当は要らないはずなんだ(親へは個人的に説明責任があると自分の場合のみ思っている)。人生の意味は他から与えられるものじゃない。自分で答えを出していくんだ。分からないことが不安の正体だ。分からないから僕は学ぶ。分からないから、備える。分からないから、構える。そんな生き方をしたいんだ。

これは、このnoteでのささやかな決意だ。
小さな革命を起こそうとしている。

時間が変化を起こすことと言われているが、
実際には、
自分で変化を起こさなくてはいけない
「世界を揺るがしたアート」アンディー・ウォーホル

生きたいと願う心に従い、
自分の内側から湧き起こる衝動に耳をかし、
自分が人生の主体であり続ける。

生きよう。自分のペースで、いいじゃないか。
人間らしく、生きたんだ。

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