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■【より道‐99】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「六角騒乱」

「嘉吉の土一揆」は、第六代将軍・足利義教(よしのり)が殺害されると、近江国の馬借ばしゃく(荷物運搬業者)が農民たちと蜂起して一気に膨れ上がりました。

あくまで、個人的な妄想ですが、きっかけは、比叡山延暦寺の僧たちの仕返しが理由なのではないかと思っています。それは、第六代将軍・足利義教(よしのり)が将軍に就任すると、対立していた延暦寺の主要人物四名を京に招き、打ち首にしたことからはじまります。

足利義教(よしのり)の卑劣な行いに延暦寺の24人の僧たちは怒り狂い、寺に火を放ち焼身自殺を図りました。自らの命を絶ち室町幕府に抗議するとは末代までの呪いでしょうか。それは、「延暦寺焼き討ち事件」として京の人々を震撼させました。

「嘉吉の乱」で、足利義教(よしのり)が暗殺されると、延暦寺が金を貸していた馬借たちが、農民たちに一揆を促して、幕府の混乱を招きます。

ほどなくして、延暦寺は、六角満綱(みつつな)の徳政令に反対して、近江国の馬借が一揆から離反しますが、その勢いは京や大和などに広がり、幕府は借金が帳消しになる徳政令を発令する事態になったのです。

すべては、大儀のない人殺しがキッカケで国が転覆する危機を招いたということなのかもしれません。

今回は、その責任をとって、退任した近江国当主・六角満綱(みつつな)と六角氏のお家騒動について記していこうと思います。鎌倉幕末に足利尊氏と共に駆け抜けた、佐々木道誉と同族、六角氏の家督問題。

その動向は、佐々木道誉直系の京極氏、尼子氏一族にまで影響を及ぼし「応仁の乱」やその後の戦国期にまで、発展していくことになります。


■無道の男・六角持綱(長男)

六角満綱(みつつな)には、3人の息子がいました。六角持綱(もちつな)、六角時綱(ときつな)、六角久頼(ひさより)です。

1441年(嘉吉元年)「嘉吉の乱」で足利義教(よしのり)が殺害されたことで発生した「嘉吉の徳政一揆」ですが、幕府混乱の責任を取らされた六角満綱(みつつな)は近江国の守護を解任され、長男の六角持綱(もちつな)が守護に任命されることになりました。

どうも、しらべると、この六角持綱(もちつな)という人物は、品行が悪く、人の道にそむいた暴悪非道なふるまいが多いということで、家臣や国人たちが困り果てていたそうです。そこで、次男の六角時綱(ときつな)を擁立して、六角持綱(もちつな)の失脚を室町幕府に訴えたそうです。

しかし、この頃、室町殿は存在していません。足利義教(よしのり)が殺害された後、1443年(嘉吉三年)に、第七代将軍・足利義勝(よしかつ)も将軍就任後わずか八カ月で亡くなったため、弟で8歳の足利義政(よしまさ)が、管領・細川勝元ほそかわかつもと畠山持国はたけやまもちくにを後見人として後継者として選出されているような時期なのです。

足利義政(よしまさ)は、六年後の1449年(文安六年)に元服して、第八代将軍に就任しますので、六角氏の内訌問題は、管領・畠山持国《はたけやまもちくに》が六角時綱(ときつな)の訴えを対処したことになりますが、この時、畠山持国はたけやまもちくには動かなかったそうです。

すると、六角持綱(もちつな)は、父・六角満綱(みつつな)とともに同族の大原持綱おおはらもちつなを頼ります。

しかし、六角時綱(ときつな)を擁立した国人衆たちは、六角満綱(みつつな)、六角持綱(もちつな)親子を執拗に追込み自害させてしまいました。


■担がれた男・六角時綱(次男)

六角氏の当主が亡くなったことで、重臣たちに擁立された六角時綱(ときつな)が家督を継ぐはずでしたが、このとき、畠山持国はたけやまもちくにから、管領を引き継いだ、細川勝元ほそかわかつもとが、僧となっていた三男・六角久頼(ひさより)を還俗げんぞく、家督を継ぐことを命じます。

これに納得いかないのが、六角時綱(ときつな)を擁立した家臣や国人たちです。なんと、六角久頼(ひさより)の暗殺を企てたのです。これに、怒った、細川勝元ほそかわかつもとと室町幕府は、六角氏と同族の京極持清きょうごくもちきよと共に六角時綱(ときつな)を討伐。六角久頼(ひさより)が家督を継いで六角氏のお家騒動は一時的に終息しました。


■ 干渉された男・六角久頼(三男)

侍所を任されていた京極持清きょうごくもちきよの妹は、管領・細川勝元ほそかわかつもとの母親でした。すなわち、将軍直下の三役職の「管領」「侍所」「奉公衆」のうち、ふたつを抑えた、細川氏と京極氏が幕政を担うことになります。

幕政を掌握している京極持清きょうごくもちきよは、六角久頼(ひさより)へ内政干渉をされたそうです。どのような、内政干渉をしたのかは、わかりませんが、六角久頼(ひさより)の最後は思いつめて自決したと言われています。

その後、家督は、六角久頼(ひさより)の息子、六角高頼(たかより)が継ぎますが、まだ、幼少だったため、六角時綱(ときつな)の息子、六角政堯(まさたか)が、後見人となり、その後、六角氏当主となりました。

この、六角高頼(たかより)と六角政堯(まさたか)が、「応仁の乱」で対立することになります。どう考えても、時代を超えた因果応報ですね。

そして、六角氏の内政干渉をした、京極持清きょうごくもちきよの子供たちも家督争いがはじまるのです。


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