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■【より道-8】随筆_『尼子の落人』(長谷部さかな)

父からのもらった随筆は、このような内容だった、、

1)野菊の墓
2)落人の墓
3)山中鹿之助
4)八つ墓村
5)七人の侍
6)東寺百合文書
7)山岳信仰の山
8)神社
9)翁山
10)当日野郡人久不住事
11)大国主命
12)記憶
13)墓参り

1)野菊の墓

 野菊の墓にお参りした。五十年前、木下恵介監督の映画『野菊の如き君なりき』で笠智衆(りゅうちしゅう)の演じる老人が墓参りするシーンを思い出したからだが、そんな昔のことを思い出して徘徊するとは、いよいよ老化が進み、頭がボケはじめているといわれてもしかたがない。当時の笠智衆は老人といってもまだ、五十代だった。現在の私は七十代半ばだ。

 野菊の墓があるのは、北総線矢切駅から徒歩十分の西蓮寺。私は、武蔵野線東松戸駅から北総線に乗り換え、矢切駅で下車した。駅前には案内板もなく、右か左かもわからなかったが、たぶんこちらだろうと、右に向かってぶらぶら歩いていくと、道の上が野菊の墓公園で、歩道橋を渡るとの墓文学碑があった。

 この文学碑は、小説『野菊の墓』の作者伊藤左千夫を顕彰(けんしょう)したものである。左千夫は正岡子規に師事し、『馬酔木(あしび)』や『アララギ』を主宰(しゅさい)した歌人だ。『野菊の墓』が『ホトトギス』に発表されたのは明治三十九年(1908年)もう、百年以上も前の昔になる。

 文学碑の周辺には、野菊の生まれ変わりというヒロインの民子の墓は見あたらなかった。「野菊の如ききみなりき」という文字をきざんだ小さな墓はあったが、その短歌の作者は、伊藤左千夫の小説のモデルとは別人らしい。

 それもそのはずで、小説では民子の墓は千葉県の市川にあることになっている。映画『野菊の如き君なりき』で笠智衆が演じた老人がお参りした野菊の墓は、矢切ではなく市川だ。

 では、野菊の墓が矢切の西蓮寺にあるとされているはなぜか。その理由を考えながら、西蓮寺の墓地を見まわすと、斎藤家の墓が目にとまった。その墓が小説とかかわりがあるかはわからない。

 「僕の家というのは、松戸から二里ばかり下がって、矢切の渡を東へ渡り、小高い丘の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の齋藤と云えば、この界隈の旧家で、里見の崩れが、二さん人ここへ落ちて、百姓になったうちのひとりが齋藤と云ったのだと祖父から聞いて居る」と小説ではなっている。

 僕というのは、「民さんは野菊のような人だ」と言った政男であり、木下恵介監督の映画で野菊の墓参りをした老人である。原作者の伊藤左千夫は、千葉県山武郡の出身で墓は亀戸の普門院にある。この老人のモデルではない。


2)落人の墓

 野菊の墓がある西蓮寺の境内に「矢切」という地名の由来となった国府台戦争(こうのだいせんそう)についての案内板がたっていた。国府台戦争とは、北条氏と里見氏との戦争で、第一回目は、天文七年(1538年)十月、第二回目は永禄七年(1564年)一月に行われている。国府台戦争の結果、里見氏は敗れて、安房(あわ)に逃れた。

 その頃は戦国時代、日本全国至のあちこちで戦争が行われていた。中国地方では尼子氏と毛利氏が覇権を争い、永禄九年(1566年)に月山冨田城の落城により、尼子氏が滅亡している。

 私の故郷、備中(びっちゅう)、伯耆(ほうき)、備後(びんご)三国の国境近くの村も古戦場だったらしいだったらしい。私が子供の頃は、その址(あと)らしきものがあった。

 我が家のご先祖は尼子の落人といわれていた。『野菊の墓』の齋藤氏のご先祖が「里見の崩れ」だとすると、私のご先祖は「尼子の崩れ」ということになる。

 もっとも、それは、単なる言い伝えであって、証拠は何もない。我が家のご先祖様の墓は碑銘のない、苔むす石だ。菩提寺(ぼだいじ)の過去帳にも尼子の落人と結びつくような記載はない。

 しかし、裏山には不動明王(ふどうみょうおう)と摩利支天(まりしてん)の祠(ほこら)があり、我が家の守護神と言われていた。また、裏山を左横へ抜けると、馬や牛を放牧する原っぱがひろがっていた。原っぱの入り口には八幡神社、山側には山の神様、荒神様(ごうじんさま)の祠があった。私が子供の頃、春になるとその原っぱで蕨(わらび)を摘んだものだが、今は、檜(ひのき)の森になってしまっている。


3)山中鹿之助

 尼子の落人というと敗者としてのイメージがつきまとうが、人間の心理は不思議なもので、自分が、その子孫だと思うと、いつのまにかプラスのイメージに変わってしまう。そのイメージ転換に大きな役割を果たしている人物としては山中鹿之助がいる。

 鹿之助は永禄九年(1566年)に尼子氏が滅亡した後、お家再興のために働く。まず、京都の東福寺の僧になっていた尼子誠久の3男、勝久を還俗(げんぞく)させ、主君として擁立した。尼子勝四郎勝久である。

 再興尼子軍は、一時は出雲をほぼ手中におさめ、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)、備後、備中、美作(みまさか)にも勢力をひろげたが、元亀二年(1571年)八月に新山城が落城し、鹿之助は毛利軍に捕らえられた。

 尾高城に幽閉された鹿之助は謀略(ぼうりゃく)を用いて脱出に成功する。そして、織田信長に渡りをつけ、中国攻めの先兵となることを誓ったが、最後は信長に捨て駒として使われ、天正六年(1578年)、上月城の戦いで敗れて、鹿之助は高梁川の阿井の渡しで謀殺された。

 念願のお家再興はならなかったが、度重なる挫折にもめげなかった彼の不撓不屈(ふとうふくつ)の精神は、「憂きことのなほこの上に積れかし、限りある身の力ためさん」という歌とともに記憶され、武士の鑑とされた。

 鹿之助の長男の幸元(新六)は、摂津国(せっつこく)川辺郡鴻池村(こうのいけむら)で、酒造業をはじめ、豪商鴻池の始祖となった。鹿之助の遺伝子DNAは、現在大銀行の行員などに伝わっているはずだ。もしかしたら、IPS細胞の研究で2012年のノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥博士にも伝わっているかもしれないが、残念ながら私には伝わっていないようだ。

 私なら、「憂きことに耐える力をあたえたまえ」とは言えても、「憂きことのなほこの上に積れかし」とはとても言えそうにない。


4)八つ墓村

 尼子の落人伝説を材料に使った小説としては、横溝正史『八つ墓村』が有名で、何度も映画化、テレビドラマ化されている。原作によれば、八つ墓村は、鳥取県と岡山県にある山中の一寒村。生業は炭焼と牛。この辺の牛は千屋牛と呼ばれている。バスで約30分の最寄り駅は伯備線のN(新見)だが、野村芳太郎監督の映画(1977年公開)新見の隣駅の備中神代(こうじろ)だ。井倉峡を連想させるような鍾乳洞が殺人事件の舞台装置として使われている。

 とすると、八つ墓村のモデルは備中に存在しているかのような錯覚におちいるが、事件そのもののモデルは、昭和十三年五月二十一日の「津山三十人殺し」だ。犯人は、犯行後、荒坂峠の頂上付近で自殺した。荒坂峠に行くには、津山から因美線で約30分の美作加茂駅で下車し、そこからさらに西へ60キロほど歩かなければいけない

 原作では、この30人殺しが尼子落人伝説と結びつけられている。それによると、八人の尼子の落武者が村に落ちのびてきた。村人たちは最初は快く迎え入れたが、お家再興の軍資金として三千両の黄金を持っているという噂を聞き、欲にかられて八人を皆殺しにしてしまう。若大将は七生(しちしょう)までこの村に祟ってやると言い残して息絶えた。祟りを恐れる村人たちは落武者の首を手厚く葬り、八つ墓明神として奉っているが、やはり祟りは消えない。

 美作には首切り峠という地名があり、似たような話が伝わっている。享保十一年(1726年)旭川上流域の山中地方の百姓が津山藩の苛酷(かこく)な年貢の取り立てに抗議して数千人規模の大一揆を起こした。津山藩は年貢の一部免除を認めたが、一揆の指導者など五十一人を処罰したという。


5)七人の侍

 『八つ墓村』のように村人たちが尼子の落武者を皆殺しにしてしまったという筋書きでは、落人がわが家のご先祖様になる可能性はない。想像をたくましくして推理すれば、たまたまわが家に年頃の娘がいて、その娘に落武者の誰かが子種を残したのではないかと思う。

 そんな想像で想像をふくらませてくれるのは、黒澤明監督の映画『七人の侍』だ。時は戦国時代末期、場所は日本のどこかの山村。収穫したばかりの作物を狙って野武士(野伏せ)が出没している。村人たちは自衛のため、七人の侍を雇って野武士の集団に対抗し撃退することに成功するという話である。村の名前は特定されないが、日本のどこかの山村なら私の故郷の村であっても不思議ではない。

 七人の侍のうち四人は戦死し、生き残ったは勘兵衛(志村 喬)、七郎次(加藤 大介)、勝四郎(木村 功)の三人だけ。百姓たちが歌に合わせて田植えをしているのを眺めながら、「今度もまた負け戦だったな。勝ったのはあの百姓たちだ」と勘兵衛が言うラストシーンが印象的だ。

 仕事がなくなった侍たちは立ち去るしかないが、思わぬお土産を残していったかもしれない。若侍の勝四郎が村娘の志乃と恋仲になって、小屋に入りしばしの時間を一緒に過ごしている。一度だけでも、本能のおももくままに種族維持の行為をした事実があれば、赤ん坊が生まれる可能性がある。映画ではそんなことをほのめかしてはいないが、侍たちが立ち去った十ヶ月後、志乃は玉のような赤ん坊を産んだのではないか。その赤ん坊がわが家のご先祖様になったというのが、はかない真夏の夜の夢のような私の推理だ。

 映画で勝四郎を演じたのは木村功、志乃を演じたのは津島恵子。いまや二人とも故人だが、私の記憶では村人のなかにはどことなく二人に似ているような男女がいた。ご先祖様の風貌は木村功や津島恵子に似ていたにちがいない。

 七人の侍のなかには侍か百姓か、素性のわからない野性的な男がいる。三船敏郎が演じる菊千代だ。彼は侍であることを証明する家系図を持参していたが、その家系図で生年を照合してみるとわずか13歳に過ぎないことが判明し、「それでは、お前は天正二年(1574年)生まれの十三歳か」と勘兵衛に笑われた。

 ということは、つまり、映画の世界は天正十五年(1587年)に設定されている。四方田犬彦『七人の侍と現代』(岩波新書)によれば、豊臣秀吉が関白の地位について二年目であり、「刀狩」の令が発せられたのは、翌天正十六年(1588年)のことだ。したがって、当時の百姓は武装していた。百姓と侍、そして野伏せとの境界線ははっきりと区別されていなかったことになる。そういえば、三船敏郎の人相は野伏の頭目のようだ。

 野伏は絶対的な悪か。野伏もまた百姓や侍と同様に人間だったのではないかと四方田犬彦は問いかけ、黒澤明監督の演出への疑問を提出している。侍の一人ひとりが豊かな個性を持っていたはずなのに、監督はそうした事柄に一顧だにしなかったと。

 四方田犬彦の言う通りだとするとわが家の言い伝えも少しあやしくなってくる。ご先祖様は尼子の落人ではなく、野伏だったかもしれない。実は野伏だったのに、尼子の落人と称していただけとも考えられる。


6)東寺百合文書

 ご機嫌伺いを口実にして、荒屋敷の隠居を訪れた。隠居には以前、『新見太平記』というまぼろしの軍旗を探してくれと依頼され、ひどい目に逢ったことがある。それでしばらく足が遠のいていたが、東寺百合文書のコピーを隠居からもらったことを思い出した。もしかしたら、あのコピーが、尼子の落人とされているわが家のご先祖さまとかかわりがあるかもしれない。

 「東寺百合文書」は京都の東寺(教王護国寺)に伝えられた古文書で、中世備中の一級資料だ。『八つ墓村』や『七人の侍』のような絵空事のフィクションではない。

  隠居が手渡してくれた「備中国名主百姓等連署起請文」寛正2年(1461年)八月十二日には(せちおか)など名主・百姓四十一人の名前が載っている。足利幕府を驚かせたこの歴史的な土一揆で江原八幡宮に集まり、宝前で一味神水を汲み交わして結束した四十一人の中にご先祖様が含まれているとすれば子孫にとっては誇らしいことだ。

「なるほど、それでご先祖様が四十一人の連署起請者に含まれているという根拠はあるのか」というご隠居に対して、

 私は『新見庄-生きている中世』(備北民報社)の「備中国新見庄分布図」を示した。この図は文永十年(1274年)備中国新見庄五分一田畠漆等分限案(百合文書クー六)などによって、現地比定されたものと説明されている。

「ここに、大原という地名があり、秋末という名があります。その隣が八幡神社で重久という名、これには文字の右横に黒棒がついています。」

「黒棒はなんのおまじないだ」

「地頭方の名名(みょうめい)と注記されています。この時代は下地中分(したじちゅうぶん)といって、同じ村のなかでも土地は地頭方(新見氏)と領家方(東寺)に分かれていたらしいのです。この例でいえば、重久と秋末は隣同士ですが、重久は地頭方、秋末は領家方ということになります」

「ふむ、それがどうした」

「実は、わが家は八幡神社の隣の家から約150メートル離れた隣に位置していました。この位置に載っている秋末は一味神水をくみかわした四十一人に含まれています」

「すると、きみの先祖は秋末だというのか」

「少なくとも地図上では符合します」

「文永10年とは西暦でいうと何年だ?」

「1273年です」

「鎌倉時代だな。その頃、尼子氏は存在していない。お前さんの先祖ではありえない」

「ですから、300年後に志乃と勝四郎が出逢って恋に落ちたことにより、尼子の落人がご先祖様になったのだと思います」

「それなら、本当の先祖はもっと古い昔からいたことになる」

「ええ、秋末と名乗るご先祖様です」

「姓が違うでないか」

「昔は村では姓よりも屋号が使われていました。我が家の屋号は(おおはら)なので、私も若い頃は(おおはらの若いもん)と呼ばれていたのです」

「今や、おおはらの古いもんだな」

「もう、誰も屋号で呼んでくれる人はいませんが」

「しかし、屋号にしても、姓あるいは苗字にしても、ご先祖と一致していることがはっきりしないと説明がつかない。つながりを示す古文書を探してきなさい」


7)山岳信仰の山

 隠居に相談すれば古文書を調べろと言われることは覚悟していたが、中世の備中についての信頼すべき古文書は『東寺百合文書』以外にあるとは思えないし、例え発見されたとしても、難しすぎて私には読めない。

 ところが、ひょんなことから思わぬ記事がみつかった。それは、インターネットで石原周次さんのホームページ『山岳信仰の山 2000』に載っている伝説だ。石原さんは定年退職後、一念発起して山頂に祠や神社がある全国の山々に登る決意をし、2013年8月15日までに2967の山に登った記録を全て紀行の形式でまとめておられる。2002年4月7日、鳥取県の大倉山に登ったときの記事は次の通り。

 この山は、大蔵山(おおくらさん)ともいい、昔大倉神社があり、闇山祇命(おおやまつみ)を祀っていたと資料にある。山を守護する神体は山頂の岩に出現した。また、近年まで一町地蔵が立っていてお詣りする人があったという。しかし、その跡らしきところは見あたらない。また、こんな話も残っている。孝霊天皇に退治された鬼が住んでいて牛鬼山とも呼ばれた。昔長谷部信連の末裔の元信が山麓を通りがかると「大蔵殿」と鬼に呼び止められて、「お前の先祖長谷部信連が各地に神社を建てるので住み難くなったのでここを去る」といって消えた。

 長谷部信連といえば、反平家を掲げて以仁王(もちひとおう)とともに決起したが平家に捕らえられ、伯耆日野氏のもとに流された(各地をさまよったという説もある)。信連は、やがて鎌倉に帰り関東御家人となり、能登の大屋荘の地頭となった。その後、長谷部信連の末裔は長氏と名乗り、前田家に重用され、加賀百万石の家老の一人となり、三万三千石と小大名並みの家禄をもらった。

 一方、当地に残った子孫の元信は、備後の武将となり、大蔵左衛門とも呼ばれた。この山を大蔵山といったことと、鬼に大蔵殿と呼び止められたという話は、元信に関わるものと思われる。長谷部信連という男によって、石川県の加賀・能登と伯耆がつながっていると思うと、この山に親しみが湧く。(中略)

 山麓の大岩見神社は大国主命(おおくにぬしのみこと)、八神姫命(やがみひめのみこと)などを祀る。因幡で八神姫を娶った大国主命は出雲への帰途、手間山(てまやま)で兄弟の八十神(やそがみ)の妬みから大けがをするが、八十神の妬みがおさまるまで大倉山の山中で待ったという。この故事から孝霊天皇が大和三輪山大明神を勧請(かんじょう)し祀ったと伝わる。

 神社から大倉山の手前のピークに大岩が見えるが、大倉山の御神体が降臨した岩であり、また、牛鬼の住処でもあった。この岩が見えるので石見といったという。


8)神社

 『山岳信仰の山 2000』の大倉山の記事をコピーして、荒屋敷の隠居に持参した。

「私と同姓の歴史的人物が大倉山に訪れたというのには驚きました。大倉山なら我家から歩いていける距離です。もしかしたら、ご先祖様かもしれません」と、コピーを隠居に手渡した。隠居は、一読して、

「なるほど、面白い伝説だ」と、うなずいた。

「でも、知られざる伝説ですね。私も今まで知らなかったのですから」

「長谷部信連と長谷部元信が歴史上の人物というのはたしかか?」

「信連は『平家物語』にも登場する鎌倉幕府の御家人です。元信は戦国時代の武将で、備後の翁山城主。最初は備後守護の山名氏に属し、続いて尼子氏に属し、最後は毛利氏に属した武将のようです」

「すると、尼子の落人ではない」

「ええ、尼子というよりは毛利の武将ですね。気になるのは(お前の先祖信連が各地に神社を建てるので住難しくなったのでここを去る)といって、鬼が消えたことです。我が家の近くに八幡神社がありますので」

「信連は八幡菩薩の加護を得て、鬼を追い払った。元信も鬼を追い払ったのだろう」

「それでは、先住民の鬼が可哀想です」

「そう思うなら責任をとれ」

 そういわれても困るが、尼子の落人がやってくる以前からわが家に先住民がいたことは考えられる。その先住人は、神代の昔には傷ついた大国主命を助けた親切な鬼だ。その鬼は大倉山にもいたし、そこから約10キロ離れた私の実家周辺にもいた。そこへ信連が乗り込んできて八幡神社を建て、鬼を追いはらった。そして、数百年後今度は信連の子孫元信がやってきて、ふたたび鬼を追放したのだろうか。

 鬼が秋末である可能性も考えてみた。大岩見神社にまつわるまつわる話としては、天文年間(1532-1555)の毛利、尼子合戦のとき、毛利勢が大岩見神社に放火して、社殿が焼失しご神体は川向う正面の松に飛び移りもうた。という言い伝えがある。(『日南町史』)。その合戦のとき、元信が毛利軍に加わっていたのかもしれない。

 秋末は寛正二年(1461年)八月廿二日に江原八幡宮に集まり、一味神水をくみ交わした四十一人の名主百姓のなかにいたから、おそらく天文年間(1532-1555)にもわが家に住んでいたと思われる。その秋末が長谷部元信に追われたとすると、『七人の侍』の時代、即ち天正十五年(1587年)に若侍勝四郎と恋におちた村娘志乃のご先祖様は誰だろうか。

「まったくとりとめのない話だ。翁山城へ行き、元信のことをもっと調べた方がよい。それに、元信と大倉山の鬼の伝説の出典を調べる必要がある」と隠居はいった。隠居を訪ねるとそのたびに宿題を出されるので忙しくなる。


9)翁山

 広島県府中市上下町、「白壁のにあうロマンのまち」を訪れた。このまちのことは自然主義の作家田山花袋が『備後の山中』という随筆で紹介している。

 花袋の弟子に上下町出身の若い女がいた。ある青年と恋に落ちて、そのことが知れ、父親が来て、無理やりにつれて行ってしまった。妻子ある花袋も実はその女が好きだった。片思いだが、女が使っていた蒲団に顔をうずめ、泣くほどの未練があった。「その女が私を強ひてその山の道を選ばしめたのである」という。当時は鉄道の便がなかったので、わざわざ福山から人力車に乗って備後の山中に向かった。女の名前は岡田美智代—小説『布団』のモデルである。

 小説では、女の出身地が上下ではなく、新見となっている。新見なら備後でなく、備中の山中だ。花袋はなぜ上下を新見に変えたのだろうか―という疑問はともかく、私の場合、「その山の道を選ばしめた」のは女ではない。ご先祖様だ。

 墓参りなら両親の法事をかねて、備中の山中にある先祖代々の墓にお参りしたばかりだった。両親が亡くなり、三人の子供はそれぞれ千葉、京都、広島に移住してしまったので、実家は解体されてもうない。なにもかも夢まぼろしのごとし。

 その夜、一泊した神郷温泉で私は弟と妹に備後の山中に行こうと提案した。弟は広島市に住んでいるので、帰りに車で少し遠回りをすれば、上下町へ寄ることができる。新見から哲西の二本松峠を経て、東城、庄原、福山を結ぶ国道182号、昔、若山牧水が「幾山河越え去り行かば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅行く」と歩いたと言われるコースである。

 JR伯備線で新郷から備中神代まで行き、JR芸備線に乗り換え塩町まで、さらにJR福塩線に乗り換えれば上下へたどり着くが、午前9時頃神郷駅発の列車を利用すると、上下へ到着するのは夕方になってしまう。車なら所要時間は約一時間半だ。墓参りをすませてから福塩線で福山まで出て新幹線に乗ればよい。

 翁山は上下川の南岸、標高538m。弟の運転する車は、ジグザグの山道を何度かとまりながら、のろのろとのぼった。全山要塞化し、どこからか矢が飛んできそうな、いかにも中世の山城の雰囲気だ。頂上は城跡公園になって、上下の街を一望におさめることができる。

 墓は公園の裏側にあった。巨大な墓が一基、その横に寄り添うように小さな墓が、三、四基。そのうちの一基は実家のご先祖の墓に形が似ている。近くにはもみじ(楓)の木があったが、これも見覚えがある。実家の庭にあって、子供のころ、木登りをよくした木にそっくりだ。

 墓の前に立つと、蝉の声が聞こえてきた。法師蝉(ツクツクボウシ)。前日、実家の裏山で泣いていたのは油蝉だが、翁山では法師蝉だ。一日の違いで夏が秋になっている。それとも同じ山中でも備中と備後では風土が違うせいだろうか。

「ということで、翁山城址に立って、既視感(デジャヴュ)を体験しました。以前にどこかで見たことのある景色だと思います」

「遺伝子にインプットされている前世の記憶がよみがえったというわけか。気持ちはわかるが、まぁ、自己暗示の結果の単なる思い込みにすぎないだろうな」

「そうでしょうか」

「そもそも翁山城主は尼子方ではなかった。おまえさんのご先祖様ではあり得ない」

 たしかに、案内板の説明によれば、城主長谷部氏は南北朝争乱の時、北朝方に属して戦功をたて、暦応三年(1340年)上下の地頭に命じられた。その後戦国時代に至り、長谷部大蔵左衛門元信により領域は拡大され、居城もこの地に移されたが、関ケ原合戦の後、毛利氏の萩転封に伴い、長谷部氏も主流は萩へ移住したという。尼子の落人どころか、れっきとした毛利の武将だ。

 また、上下歴史文化資料館のスタッフから向いの長書店が翁山城主の末裔と聞いて、店主の長秀雄氏にお伺いしたところ、能登の長谷部(長)氏本流の家紋は銭九曜、上下の長氏は九曜星だそうだ。いずれもわが家の家紋の(丸に九星)と似てはいるが、あきらかに違う。


10)当日野郡人久不住事

 『山岳信仰の山 2000』の著者石原周次さんに電子メールで問合せ、返事をもらった。それによると、大倉山の伝説は『日本歴史地理大系 第32巻』(平凡社)で、『日本歴史地理大系 第32巻』をみると、『日野郡史』に掲載されているという。

 早速図書館で『日野郡史』を読み、口碑(こうひ)伝説の章に長谷部家文書として「当日野郡人久不住事」(記録名)抄 依宝暦十三年 長谷部絢光(七十一歳)著の存在を確認した。

 内容は、『日本歴史地理大系』への転載文字よりも長く、例えば、「我、若年二十三歳の頃下榎村叔父方に参り候所に村の内老人内寄り古咄し申せし事也古元秀の子長谷部左衛門元信の代なりと川向うの上より、大蔵殿、、と呼ぶものあり云々」という著者の前書きがついている。

 鳥取県日野郡には下榎と黒坂に長谷部氏が住んでいるらしい。どちらも、長谷部信連を先祖とする家系が『日野郡史』に載っている。下榎が本家、黒坂が分家で、どちらも平氏の氏神厳島神社を勧請した神社の神官系の家系のようだ。「当日野郡人久不住事」で注目されるのは、最後に次の註がついていることだ。

 註 これより元信、毛利家に加担したること及関長門守黒坂入城の際雅楽相模守(元信五代の孫)に地割(じわり)させられしことより長門守神罰を受けて滅亡することに及び仏法を排し神明神衹(しんめいじんぎ)を崇拝すべきことを詳論せり。

 神明神衹を崇拝しないと神罰があたるぞという主張が込められているとは驚いた。著者の主張によれば、元信は毛利家に加担したために神罰があたり、元信五代の雅楽相模守は関長門守一政が黒坂城を築いたとき地割をしたために神罰があたって滅亡したという。

 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)につながるような神道の思想である。「お前(元信)の先祖信連が各地に神社を建てるので住み難くなったのでここを去る」と鬼にいわせているが、鬼が長楽寺や元信が再興した上下の善昌寺のような禅宗の寺院をさすのだろう。源氏の氏神八幡神社もふくまれているかもしれない。

 また、元信五代の雅楽相模守とあるが、元信の名前は下榎本家の系図、分家の系図のどちらにも見あたらない。元信は備後翁山城の城主だから伯耆長谷部氏の祖であるはずがない。伯耆長谷部氏は代々、伯耆に勧請した神官の家系のようだ。

 備中には長谷部氏は現存しないと思うが、幕末の備中松山藩家老山田方谷のことを調べているうちに、方谷の母親梶の八代前の祖が長牛之助ということがわかった。長氏はその後、西谷氏に改姓している。


11)大国主命

「というわけで、わが家のご先祖様のルーツは、備後、伯耆、備中の3通りが考えられます。そのうちどのルーツが本物かわかりません」と私は隠居に報告した。

「地頭だった新見氏のこともわからないのに、お前さんのご先祖のことがわかるわけない」と隠居は笑いながら言った。

「わずか500年前のことがわからない。歴史とはたよりないものです」

「大倉山の鬼の話は、中世よりも古代のほうが面白いね」

「それは、また何故でしょう?」

「出雲の荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)や加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)から膨大な数の銅剣(どうけん)や銅鐸(どうたく)が出土したことは知っているかい?」

「何年か前に新聞でそんな記事を見たことはあります」

「荒神谷遺跡は1984年、加茂岩倉遺跡は1996年だ。それによって、古代史の通説がひっくりかえった」

「いきなりそんなことを言われても実感が湧きません」

「大量の銅剣と銅鐸の存在は、出雲に強大な王朝があったことを示している。その出雲王朝を代表し、象徴するのが大国主命だ。因幡で八神姫を娶った大国主命は出雲への帰途、手間山で兄弟の八十神の妬みから大怪我をするが、八十神の妬みがおさまるまで大倉山の山中で待ったという故事は面白い」

「それは、神話にすぎません。しかも、『古事記』や『日本書紀』にも載っていない神話です」

「大国主命が八十神の妬みを受け、手間山で大怪我をしたことは『古事記』に載っている。その後、大倉山で鬼に介抱されて傷を癒した。この故事は、『古事記』にはないが、大倉山で傷を癒し、その後、孝霊天皇が鬼を退治した後、大和三輪山大明神を勧請し祀ったというのは十分考えられるではないか」

「でも、天皇家は初代神武天皇から九代開化天皇までは実在しない、十代崇神天皇以後が実在の天皇だと私は日本史で学びました。孝霊天皇は七代ですから、実在していないはずです」

「その通説は戦後、津田左右吉がひろめたものだが、今や疑問視されぐらついている。孝霊天皇は実在し、大岩見神社に大和三輪山大明神を勧請したのだ」


12)記憶

 『古事記』は、和銅五年(712年)稗田阿礼(ひえだのあれ)の記憶にもとづいて太安万侶(おおのやすまろ)が書き記し、編集した日本最古の歴史書だが、古代の歴史書についれの阿礼の記憶がたしかなものかどうかはわからない。歴史書ではなく神話にすぎないともいわれている。

 『当日野郡人久不住事』は宝暦十三年(1763年)長谷部絢光氏が書き記した古代の神話と中世の伝説とをまぜあわせた文書だが、私の親戚や知人は誰もこの伝説を知らなかった。伝説というより寓話あるいは逸文と呼ぶべきだろう。

 人間の記憶はあやふやであり、人間が書いた歴史は必ずしも真実を伝えているとはかぎらない。私の記憶もあてにはならないが、勝手ながら、この機会に、大倉山のささやかな個人的記憶を書きとめて、しばし感傷にひたるのをお許しいただきたい。

 大倉山(1112m)は鳥取県と岡山県の県境の鳥取県側にそびえている。JR伯備線上石見駅から距離は約2・4キロ。私の実家は岡山県側の高瀬で、伯備線の最寄り駅は新郷(昭和28年開設)だが、私が子供のころは、まだ新郷駅がなかったので、村人たちは上石見駅を利用していた。病弱だった私も何度か上石見の病院まで歩いて通ったことがある。

 実家から野原の峠を下って上石見駅までは約8キロの距離だ。峠が県境になっているが、古代においては出雲と吉備の国境、中世から近世にかけては、伯耆と備中の国境である。つまり、備中の住人からみれば、大倉山は他国の山だ。

 子供の私は、峠の上から上石見駅を見下ろすと、心がおどった。それは、井上靖『通夜の客』のヒロインが「あのいかにも高原の駅らしい上岩見の小さくて清潔なプラットフォームに降り立った時はもう暮方でした」という駅で、少年のころの私にとっては山の彼方の空遠くへ未来が広がってゆくゲートウェイのような気がしていたが、それに比べると大倉山の印象は薄い。

 大倉山の姿が見事なことを知ったのは、高瀬小学校(2005年3月閉校)を卒業して、新郷中学校(2008年3月閉校)へ通うようになってからである。校庭から大倉山がよく見えた。図画の時間には私たちは校庭に出て大倉山を描いた。春夏秋冬、いつみても大倉山は美しかった。

 松本清張は『父系の指』という短編小説で「大倉山の若葉は見事なもんじゃ」と矢戸出身の父に語らせているが、大倉山の羨望のよさは、若葉の頃だけではない。中学生の私たちは校庭に出て、大倉山を素材にして下手な絵を描いた。下手な詩をつくったこともある。

故郷のマッターホルン
急勾配をのぼる二本の線路は
山が左右から覆いかぶさり
長いトンネルに消える
彼方には鋭い稜線の山が
ひときわ高く聳えている
その山は季節によって姿を変え
いつも新鮮な姿であらわれる
山の名前はマッターホルン
中国山脈のマッターホルンといった

 まさか山に鬼が住んでいたとは想像も及ばないことだった。後年、登山電車を利用して、スイスのツェルマット村からマッターホルンに登ったことがあるが、大倉山とは似ても似つかぬ山だった。鬼は凄んでいないが、魔の山と呼ばれているそうだ。


13)墓参り

 年に一度はご先祖様の墓参りをしないと心が落ち着かないような気がする。両親が健在の頃は、お盆に備中に帰省していたが、私自身が高齢者になってしまうと、備中は遠すぎる。それに、お盆の頃というと八月中旬、暑い盛りで体力がもつかどうか自信がない。

 そこで、その代わりに、尼子氏が滅亡した十一月二十一日頃、深川の不動尊と御徒町の摩利支天大徳寺、それに富岡八幡宮と浅草の観音様にお参りするようにしている。

 実際にわが家のご先祖様が尼子の落人か毛利の落人かわからない。源氏か平氏かもわからない。私の脳細胞には鬼や野伏のDNAも混じっているような気がするが、今や何もかも神話と伝説の霧につつまれて、本当のところはわからない。

 ただし、私自身も経験したことでもあり、これだけは間違いないという歴史的事実は、昭和二十年八月十五日に現人神の昭和天皇が玉音放送で無条件降伏を認めたことだ。これで日本人は平等になった。誰もが尼子の落人と同じように、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ばなければならない。憂れきことに耐える力をあたえたまえ。


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