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【25日目】松田氏の枝分かれ

ご隠居からのメール:【松田氏の枝分かれ】

松田氏の枝別れでは、あらたにもう一軒、さらにもう一軒と存在していたことを思い出した。それに比べて長谷部氏は我が実家と分家の亀三叔父の家しかない。

しかし、資料によると、氷室神社の宮座・秋末を引き継いだ長谷氏の存在がある。また、いちばん鳥取県境に近い木谷部落には長谷川氏が約十軒あったと記憶している。みんな長谷部氏から枝分かれしたのではなかろうか。長谷氏や長谷川氏も加えれば、松田氏よりも多くなる。

江戸時代は、ほとんど百姓の家には姓はなく、明治維新後に姓をつくって戸籍登録した。長谷部氏は、「名字帯刀を許されている」と称していたが、徳川幕府に公認されていたかどうかはわからない。渋沢栄一家のように御用金を納めて認められた可能性はあり得る。

>1540年以降、戦国時代の尼子、毛利の領地になった時は、
>荘園制度が崩壊してるんじゃないのかね。

その通り、オレの仮説によれば、その頃、吉野村が高瀬村に変わり、長谷部氏や松田氏が移住してきた。

>秋末と重久を侵略をしたのに
>なぜ、他の土地は侵略しなかったのか?

侵略は先住民がいれば、そう簡単にはいかないよ。新見市史によれば、地頭の新見氏が尼子氏の威勢を背景に、高瀬村の土地を入手している。長谷部氏や松田氏は新見氏と何らかのかたちで折り合わなければ、生き残れない。しかし、新見氏は応仁の乱で没落し、歴史の表面から姿を消した。

返信:【Re_松田氏の枝分かれ】

「応仁の乱」では西軍の山名方として、長谷部氏と出雲松田氏が闘ったみたいなので、新見氏が没落したタイミングともあうのかな。当時、何かあったのかもしれないね。

出雲松田氏、松田誠保の正室は尼子政久娘とのことなので、我々にも尼子家の血も流れている可能性がある。出雲松田氏はかなり尼子氏に近い関係だったみたいだ。

少し気になるのは備前松田氏。この系統はかなり優秀で過去も昔も著名人が活躍しているが、岡山県岡山市北区御津の地頭職をして「西谷城」も築城している。。山田方谷さんの系統。同じ西谷だ。

出雲も備前も同じ松田。長谷部とつながっていてもおかしくないのかな。


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