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【24日目】松田氏は二系統

ご隠居からのメール:【松田氏は二系統】

松田氏は二系統。八幡宮の氏子代表である松田氏と氷室神社の氏子である松田氏の二系統があるようだ。『新見庄 生きている中世』の地図によれば、長谷部氏の実家が「秋末」隣家松田氏は「重久」という名になっている。

 実は領家方(東寺)と地頭方(尼子氏、毛利氏、新見氏)の土地が複雑に入り組んでいる。秋末(→長谷部氏実家)の土地は領家方、重久(→松田氏)は地頭方だ。

 つまり、隣家同士が、領家方と地頭方として対立していたが、隣家ということであれば、協力もする必要がある。そのため、緊張緩和のためにも政略結婚がすすめられたのではないか。

 『新見庄 生きている中世』によれば、平安時代はすべて東寺の土地だったが、自分で税を徴収するわけではない。代官として地頭に税の徴収を代行してもらう必要がある。

 ところが地頭の武士の勢力が強くなると、地頭が税を猫ばばするようになる。十三世紀の応永十年の頃は、領家方の土地は3分1、地頭方が3分2になった。下地中分といって、土地を領家分と地頭分とに二分するしくみが設けられた。秋末と重久はそんな関係だったのだろう。

 戦国末期、秀吉の刀狩りの後は、下地中分のような複雑な制度は消えと思わ
れる。武装農民は、武装解除されて、百姓になるしかなかった。


返信:【Re_松田氏は二系統】

地頭と領家の下地中分は1460年頃まで資料が残ってるから証明されるけど1540年以降、戦国時代の尼子、毛利の領地になった時は、荘園制度が崩壊してるよね。

隣の松田氏で考えられるのは、① 松田(重久)が先住民② 松田が重久を追い出した③ 遠縁の松田(氷室系)に誘致されたと、いうところか。。。秋末を長谷部氏が追い出したとことを推測すると松田氏も一緒に重久を追い出した可能性もあるね。

それか、秋末氏は最初、氷室神社を氏子として祀っていたけど、八幡宮を松田氏が歓請したので氷室神社の名頭をはずれた。。。そんなことあるのかね。

八幡宮の氏子は長谷部氏・松田氏ともに桓武平氏の流れだから理にかなう。そうすると、あらたな謎が生まれる。秋末と重久を侵略をしたのになぜなのか。他の土地は侵略しなかったのか?氷室神社の宮座・秋末を引き継いだ長谷さんとは何者か?


松田氏(まつだし)は、越中国富山郡松田郷に発祥した藤原秀郷流波多野氏一族、並びにそれから派生したと見られる室町時代に備前国西部一帯に勢を張った家系と室町時代に奉行衆として仕えた丹後を拠点とする桓武平氏流の一族が知られているが、出雲松田氏がご先祖さまになるね。

松田氏は本当に色々枝分かれして活躍しているから、松田氏を整理していくとパズルが埋まるかもしれないね。「出雲松田氏」「備前松田氏」「奉行衆 松田氏」「小田原北条氏臣 松田氏」など。色々枝分かれしてそうだ。


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