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■【より道‐65】戦乱の世に至るまでの日本史_「観応の擾乱」兄弟ケンカの前哨戦

南北朝の対立がややこしくなるのは、足利一族の内輪もめが大きな原因です。征夷大将軍の足利尊氏は、執事で補佐役の高師直こうもろなおや佐々木道誉など婆娑羅ばさら大名たちを支持していました。

一方、政事まつりごとをつかさどる弟の足利直義ただよしは、有力御家人や名家の公家たちと政事を行い、北条氏が鎌倉時代に整えた執権政治をめざしていました。

しかし、命がけで戦ってきた婆娑羅大名たちは、面白くありません。幕府の政事には携われず、南朝との戦にばかり駆り出されるわけです。

そのような、仕打ちに不満がたまっていくと、北朝の「朝廷」に物申したり、民衆に狼藉を働いている、皇族出身の僧たちがはたらく「妙法院」に火をつけたり、光厳こんごう上皇の行幸ぎょうこうに弓まで弾いてしまいました。

これは、南北朝廷問題のために、自分たちの一族が命を落として戦っているのに、北朝の皇族たちが、我が物顔で京の街を歩いていることを腹ただしく思い、自分たちは何のために戦っているのか、わからなくなってきたのでしょう。

この足利直義と婆娑羅大名たちの思い違いを、足利尊氏がなんとか手綱をひいていましたが、あるきっかけから、大騒乱に発展します。

それは、南朝の思惑が入り組んだ複雑な出来事となりました。


■ 足利直義と高師直の争い
高師直の女癖の悪さはかなりのもので、家来の妻や娘が美人なら取り上げてしまい、公家や他家の娘、しまいには皇女にまで手を出す始末だったそうです。

「太平記」では、高師直が無理やり妻にした二条関白の娘が、南朝の北畠親房きたばたけちかふさと通じていて、主君である足利尊氏を討つようそそのかしたり、室町幕府の状況を逐一報告していたとしています。

そして、あるとき高師直は、佐々木道誉の遠縁にあたる、塩冶高貞えんやたかさだの妻に惚れてしまいます。すると「徒然草」で有名な随筆家、吉田兼好に恋文を代筆させて送ったり、風呂場を覗きにいったりまでしたそうです。

そんな、ストーカーのような高師直の行動に恐怖を感じた、塩冶高貞の妻は、夫に相談して、みごとにフラれてしまいました。

すると、高師直は、腹いせにと「塩冶高貞が南朝とつながっている」と、噂を流し足利直義派閥に屋敷を襲わせ殺害させてしまいました。しかし、私情に踊らされていた事実を、後から知った足利直義は、高師直の悪行に怒りを募らせます。


このような、幕府内のいざこざを好機ととらえた南朝の北畠親房は、1347年(正平二年)に楠木正成くすのきまさしげの息子、楠木正行まさつらに挙兵させます。楠木正行は、少ない兵士で足利直義派閥の細川氏、山名氏の大軍をたて続けに討ち破ったそうです。

すると室町幕府は、戦の強い高師直に白羽の矢をたてました。婆娑羅大名の軍は、強いのです。それは、武士の性分を知っており、功績を残したものには、惜しみなく恩賞を与えていたからともいわれています。

結果、高師直の軍は楠木正行を追い詰め勝利しました。足利直義派閥の大軍が二度も敗退したのにもかかわらず、高師直の軍がその進撃をとめたのです。こうなると、足利直義は、面子を失い高師直はますます調子にのりだしました。

高師直の数々の悪行に我慢できない、足利直義は、兄の足利尊氏に、高師直を執事の座から降ろすことを嘆願します。足利尊氏は苦渋の選択ながら、幕府のいざこざを穏便にすませるためにも、それを認めました。

しかし、足利直義は、それだけでは飽き足りず、高師直を暗殺しようとしますが、これは、失敗に終わりました。

暗殺まで企てられた高師直は黙っていません。軍を引き連れて足利直義との戦の準備をはじめます。それを察知した足利直義も返り討ちにするため、戦の準備を進めますが足利直義派の御家人たちは、高師直軍にどんどん寝返ってしまいました。

そんなとき、足利直義のもとに兄から「屋敷に来るように」と文が届きます。高師直も主君の屋敷に攻め込むわけにもいかないだろうと、足利直義は、兄の屋敷に立て籠ることになり、兄弟で話し合いの場が設けられることになります。

その結果、鎌倉から足利尊氏の嫡子、足利義詮よしあきらを上京させて、今後の政事を任せることにして、足利直義は、足利義詮の政事をサポートしながら、出家させるということで、この騒ぎを収束しました。

実は、このクーデターは、足利尊氏が「自らの屋敷を囲め」と高師直に命じたのではないかともいわれています。とにかく、このような一連の出来事から、足利尊氏と足利直義の日本を二分する兄弟ケンカが始まったのです。


さて、記事のなかに登場した塩冶氏はのちの、尼子の一族になります。塩冶氏は、佐々木一族の縁戚で、出雲国や石見国で勢力を保っていました。

塩冶氏は、1333年(元弘三年)の「船上山の戦」で、従弟の佐々木(隠岐おき清高きよたかを裏切り、後醍醐天皇を支えていました。

「建武の乱」では新田義貞とともに、足利討伐にむかいましたが、途中で寝返り足利氏に属します。そして、室町幕府が成立すると、出雲・隠岐の守護となりました。

「太平記」では、高師直が塩冶高貞の妻に惚れたことをきっかけに、謀反が描かれていましたが史実は明らかではありません。

ただ、塩冶高貞の妻は、後醍醐天皇の親戚だということ、山陰地方では、後醍醐天皇とともに、鎌倉幕府倒幕を試みた日野資朝ひのすけともの子、日野邦光くにみつをはじめ、南朝方の活動がめざましかったため、謀反は真実なのではないかといわれています。

「船上山の戦」には、ご先祖様の長谷部信豊のぶとよさんも参戦していますし、ご隠居の故郷、高瀬に住むご先祖様たちは、隣村の日野から妻をめとっていました。

塩冶氏は、尼子氏のご先祖様になりますので、もしかしたら我が家に伝わる「尼子の落人」の謎につながる出来事なのかなと、おもったりもしたりしました。


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