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■【より道‐47】後世に残された古文書_東寺百合文書

歴史の難しいところは、読めない「文字」と見慣れない「名前」を頭の中に入れることがとても面倒というか、根気が必要なことでして、

ましてや寺や神社の宗派やら決まり事となると、もうなにがなんだか、わけがわからなくなってしまいます。さらには、当時の「常識」までも想像する必要があるので、現在の生活には全く関係ないとあきらめる次第です。

それでも不思議なことに、現代でも正月には初詣に行くし、どこかの旅先で観光をすると寺や神社で参拝したりするわけです。おみくじをひいて一喜一憂しお守りを買って願掛けしたりします。

お寺や神社は、なんだか、自分の人生に関わりがあるようで、ないような、不思議な存在です。

我が長谷部家のファミリーヒストリーを調べると「東寺」という京都にある寺がどうも謎をとくヒントになっているようです。難しい言葉等と向き合わなければいけないので、ちょっと覚悟が必要そうですが、仏教の歴史とともに少し調べてみようと思います。


■ 仏教の歴史

日本全国各地にあるお寺は、私たちの生活にあたり前のように根付いていますが、どのような歴史があるのでしょう。そもそも仏教は、紀元前6世紀ごろインドの人物「釈迦しゃか」が「この世にあふれている苦しみから解放される方法」として悟りを開き仏陀ぶっだと呼ばれたそうです。そして「仏陀の教え」を略し、仏教が各地に広まりました。

何百年もの年月が経つと、仏陀と同じように仏教の悟りを開いた人物が現れます。その人物のことを「如来にょらい」と呼ぶようになりました。ちなみに、悟りを開く直前の修行中の人物のことを「菩薩ぼさつ」と呼ぶそうです。

日本で有名な如来は、釈迦如来しゃかにょらい薬師如来やくしにょらい阿弥陀如来あみだにょらい大日如来だいにちにょらいがいるそうです。もう、このあたりで頭の中から、煙がプスプスしだしてます。

そして「如来」から、さらに宗派がわかれまして。例えば、阿弥陀如来は「天台宗てんだいしゅう」「浄土宗じょうどしゅう」「浄土真宗じょうどしんしゅう」「真宗大谷派しんしゅうおおたには」のご本尊ほんぞん

大日如来は「真言宗しんごんしゅう」のご本尊。

釈迦如来は「曹洞宗そうとうしゅう」と「臨済宗りんざいしゅう」のご本尊です。

ご本尊とは、中央に祀られている信仰の対象のことのようです。

それぞれの宗派の違いまで調べだすと大変なことになりそうなのでやめときますが、我が長谷部家は「曹洞宗」と聞いたことがありますので、釈迦如来、仏陀をご本尊として信仰していたということになります。


■東寺百合文書

では、京都にある東寺の宗派はなにかというと、大日如来の真言宗のようです。平安時代初期の僧である、空海くうかいが中国で伝授した奥義や経典などを、日本に伝来させました。

東寺は796年(延暦十五年)に創建されますが、それから二十数年後の823年(弘仁十四年)に第52代・嵯峨天皇さがてんのうが空海に東寺を与えて真言密宗の道場にしたそうです。東寺のホームページをみると、唯一残る平安京の遺構として1994年に、世界遺産登録されたとありました。

その東寺には、東寺百合文書とうじひゃくごうもんじょという、6世紀から18世紀までの約千年間にわたる膨大な量の古文書が治められているそうで、その数はおよそ2万5千通に及ぶようです。

この第一級古文書たちは、加賀藩の第4代藩主・前田綱紀まえだつなのりが、日本各地に家臣を派遣して集めたそうです。そして1685年(貞享二年)に文書の整理を終えると膨大な数の文書を保存するための桐箱百個と一緒に東寺に寄進したそうです。

1000年もの時代を超えて和紙と墨字が残っているというのは、ものすごいことですね。


■ 備中国名主百姓等連署起請文

東寺百合文書のなかに1461年(寛正二年)「備中国名主百姓等連署起請文」という古文書が存在しています。

どういうものかというと、備中(現:岡山)にある新見荘にいみしょうは、1325年(正中二年)から東寺領となっていましたが、地頭や土豪が力を振るい、互いに対立などの混乱が頻発していたため、武力を持たない東寺が新見荘を直接支配することができませんでした。

こうした状況で東寺に代わって新見荘を支配したのが、室町幕府の管領を務めた細川氏の家臣である安富やすとみ氏でした。しかし、この安富氏は百姓たちから東寺と契約した以上の年貢を徴収し続け、さらには、東寺にも年貢を納めなかったそうです。

飢饉の影響もあったでしょう。新見荘の百姓たちの我慢もついに限界に達しました。百姓たち41人は起請文きしょうもんを書き、「一味神水いちみしんすい」を交わして、安富氏を永久に受け入れないと固く神仏に誓い、新見荘を直接管理する代官を東寺から派遣してほしいと書類を送り土一揆を成功させました。

その41人の百姓のなかに「秋末あきすえ」という名前が残されています。

また他にも東寺百合文書のなかに「備中国新見庄分布図」というものがあるのですが、現在の土地と比較してみると、ご隠居の故郷である、我が長谷部家の土地に「秋末」という名が記されていました。

「見渡す限り長谷部の土地だ」と言われていた土地は、室町時代に秋末さんが命がけで守っていた土地でした。もしかしたら、平安時代から班田収授法はんでんしゅうじゅほうで年貢を納めていたかもしれません。

しかし、長谷部信連が源頼朝から能登大屋荘を賜ることで、我々とは別系統の子孫たちが能登で繫栄しました。そして、その子孫たちが仕えた前田家当主のおかげで、伯耆に残された我が一族が守ってきた土地の歴史を知ることができるというのも不思議な縁を感じます。

どのような流れで、ご先祖さまが住み着いたかはわかりませんが、応仁の乱、戦国期を経て「秋末」さんが守っていた土地に「尼子の落人」が流れ着いたのだと思います。


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