■【より道‐106】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_「応仁の乱(自習):中編」
人の世のむなしい「応仁の乱」と、語呂合わせがありますが、1467年前後の出来事だけでこの争いの背景を理解するのは、難しいと思います。
これは、なにも「応仁の乱」という、わけのわからない中世の日本史だけではなく、第二次世界大戦にいきつくまでの近代史もそうです。どうしても、目の前のことばかり気にしてしまいますが、時代を超えた理由が必ずあります。
現在起きているロシアとウクライナの戦争もそうですし、仮に、これから、中国と台湾で軍事衝突が起きるのであれば、それも、時代を超えた理由があり、日本もその戦に大きく関わっています。私たちは、その歴史をちゃんと理解しておかなければいけません。
ロシアとウクライナの戦争は、共産党と国民党の戦いである台中戦争に発展する可能性があります。それは、韓国と北朝鮮の戦い、朝鮮戦争に発展する可能性もあるということです。
そして、米中、米露戦争がはじまれば、日中戦争、日露戦争に発展する可能性が大いにあるわけです。すくなくとも、私たちのご祖先さまたちは、その争いに巻き込まれてきました。
そのように考えると、じぶんなりに歴史を学び、命を学び、戦争が起きた理由を考えるというのは、とても大切なことだと思います。
■家督の復帰と勢力争い
六代将軍・足利義教は、有力大名の斯波氏・畠山氏・山名氏・赤松氏・京極氏・大内氏などの家督相続に介入をして、一色氏・土岐氏などの当主に至っては、粛清していました。
なかでも、三管領、畠山氏への家督介入は、とても重要だったと思います。足利義教は、じぶんの言うことをきかない畠山持国を強引に隠居させて、弟の畠山持永に家督を継がせます。
しかし、足利義教が「嘉吉の乱」で殺害されると、後ろ盾をなくした畠山持永が、兄、畠山持国を恐れて、暗殺を企てますが、失敗。逆に滅ぼされてしまいました。
足利義教が襲われたときに、壁をよじ登り不様に逃げ惑った、管領・細川持之に有力大名をまとめるチカラはありません。
鎌倉に在る東の将軍は、足利義教が自害に追い込んでいますから、東西の将軍を失っている日本の世は、細川持之から管領を引き継いだ、畠山持国が担うことになったのです。
畠山持国は、足利義教に家督を奪われた他家の元当主たちを復権させることで懐柔し、自らの勢力を増すことを目指します。すると、当然のように、各家ではお家騒動がおきて、家中で対立が起きてしまいました。
その対立をより一層焚きつけたのが、細川持之の息子で、細川氏の家督を継いだ細川勝元です。細川勝元は、畠山持国とは、反対勢力、すなわち、足利義教が擁立した人物を支援することで、畠山氏と対立することにしました。
細川勝元と畠山持国の年齢差は、32歳。細川勝元が家督を継いだのが16歳ですから、「嘉吉の乱」後、畠山持国が管領になったのは、48歳ということになります。
そして3年後、細川勝元が、はじめて管領になったのが、19歳の頃。畠山持国は51歳でした。細川勝元は、この頃、山名宗全の養女と結婚し勢力を拡大しています。
この、お家騒動と勢力争いも「応二の乱」のひとつの要因となるわけです。
■畠山氏のお家騒動
他家への家督介入をした畠山持国でしたが、自らの家でも、お家騒動を起こしてしまいます。もともと、畠山持国と正室との間には、子宝を授かることができなかったので、弟の畠山持富に家督を継がせる予定でした。
しかし、ちまたで有名な遊女との間に自らの子がいることが判明すると、八代将軍・足利義政を巻き込んで、畠山持富の家督相続を撤回。息子の畠山義就が後継者となることを宣言させました。
この対応に畠山氏の家臣たちのなかで反対勢力が生まれます。どこぞの娘との子、畠山義就に畠山家の当主を任せるわけにはいきません。正統な血筋の畠山持富の息子、畠山政久が家督を継ぐべきだとーー。
この対立を好機ととらえたのが、細川勝元と山名宗全です。八代将軍・足利義政と、畠山持国の判断に背き、ふたりは、畠山政久を支援することにしました。
その後、畠山持国が亡くなると家督は畠山義就が継ぎますが、畠山義就は、八代将軍・足利義政のいうことを聞かず、どんどん信頼をなくしていったそうです。
その後、畠山義就と対立していた、畠山政久が亡くなりますが、弟の畠山政長が、その意思を継ぐと、将軍・足利義政は、畠山氏の家督を畠山政長に命じることにしたのです。
そして、畠山政長が管領職に就いたときに「応仁の乱」が開戦されたというのもポイントです。この、ふたりの争いが「応仁の乱」の緒戦となったともいわれています。
■足利義政と日野富子
八代将軍・足利義政の立場は同情するものがあります。幼いころに親兄弟を亡くして、14歳で将軍になれたと思ったら、畠山持国や細川勝元に政事の実権を握られ、名ばかり将軍になりました。
それでも、日本は飢饉が蔓延して全国各地で一揆がおきて対応や決断を迫られます。また、おい打ちをかけるように、正室の日野富子との子が死んでしまうのです。
政事を宿老たちに任せて、じぶんの好きな、茶道、華道、猿楽、造園などにチカラを注いだ生き方は、ロクデナシと聖人君子の領域だと思います。そうじゃなければ生きていけなかったのでしょう。「わび、さび」などの日本人らしい文化を築いた、才能は素晴らしいものがあります。
しかし、そんな夫の行動に、やきもきするのが、妻、日野富子なわけですが、彼女は、関所の通行料や大名への高利貸しなど、金で金を生む仕事を生業にして夫を支えると、政事での影響力を増していきました。
一方、政事に興味のない、足利義政は、28歳で隠居することを決意。仏の道に進んでいた足利義視に、後継者になることを説得して、還俗させるわけですが、その翌年に、足利義尚が誕生して、足利家のお家騒動、「応仁の乱」が勃発するのです。
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