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■【より道‐58】歴史が刻まれる辺境の地_伯耆日野に残る跡

安芸国、備中国、伯耆国への1泊2日でルーツを辿る弾丸ツアーは、宮島の「厳島神社」そして、ご隠居の故郷、高瀬の地での墓参りをすることができました。

高瀬の地は、過疎化が進み、長谷部の田畑も草木で荒れ果てていました。少なからずとも、室町時代に京都の東寺へ年貢を納めていた良質の畑は、みるも無残な姿となっています。これは、由々しき問題だなと思いました。

そのように、思えただけでも良かった。

そう思い親戚の信谷のぶたにさんにご挨拶をして先を急ぐことにしました。なにせ、本日中に神奈川の家に帰らなければいけません。

次に向かったのは、鳥取県日南町日野にある「長谷部館」です。

「長谷部館」とは、平安末期に、後白河法皇ごしらかわほうおうの皇子、以仁王おちひとおうを平氏の追っ手から逃がして、源平合戦のキッカケをつくったといわれている長谷部信連はせべのぶつらが、平氏に捕まり流罪となって生活をしていた地と言われています。

「平家物語」に登場するご先祖様が過ごした「長谷部館」までは、故郷の高瀬から車で30分ほどの距離にあります。大倉山おおくらやまを越えて、鳥取県に入り、日野川を渡ると「長谷部館跡」と書いてある案内板をみつけました。

見渡す限り田畑の地にポツンと一軒母屋があり、その隣に案内板があります。

長谷部信連
長谷部信連(長左衛門尉)は、後白河法皇の第二皇子以仁王に仕えていたが、1180年(治承四年)平家打倒の企てが洩れ、王逮捕の兵と戦い、信連一人王宮にとどまり、捕らえられた。その猛勇を惜しまれて死罪を滅ぜられ、同年秋、金持に配流されたという。

1184年(寿永三年)平家滅亡の後、信連は赦免しゃめんされ自由の身となり、下榎しもえのき土居どいの現在地に移り、開拓につとめた。

鎌倉に召されるまで、この地の開拓治安にもつくすほか、京文化を偲び延暦寺や厳島神社、祇園神社の再興につくすなど、多大な功績を残したと伝えられる。

1186年(文治二年)四月検非違使に、六月御家人に加えられ能登六郡の地頭職に任せられ、1216年(建保六年)七十二歳の没年まで同郡大屋荘に住み、その子孫は、代々ちょう氏を名乗った。

下榎の現在の長谷部家の当主は、信連の31代目にあたる。昭和六十年には、長谷部信連顕彰会により、長谷部信連八百年祭が行われた。

日野町教育委員会

案内板の隣には、顕彰碑けんしょうひがたっており、なにやら、数々のご先祖様の名前が刻まれていましたが、雨風に打たれ読めない文字などもあり、よくわかりませんでした。

そして、母屋を挟んだその隣に「厳島神社」がありました。日野「厳島神社」は木々に囲まれ、日の光が差し込む様子は、まるで映画のワンシーンにでてくるような、荘厳な雰囲気でした。灯篭などには寄進したと思われる長谷部氏の名が記載されていて、「信」の字がいみなとして引き継がれている様子がうかがえます。

この勢いで、31代当主の長谷部氏にお話しを聞きたいと思いましたが、なにぶんシャイな性格でして、尋ねる勇気がでませんでした。いつの日か、お話しをうかがえたら嬉しいです。

日野「厳島神社」の裏山をのぼると中腹に、長谷部信連が建てたといわれている延暦寺や長楽寺の存在を確認することができたので、次なる目的地「金持神社」に向かうことにしました。

10分ほど車で進むと、目を疑います。

なんとも、たくさんの若い人たちが集まっているのです。こんな、村人に会うことでさえほとんどない、辺境の地にこれだけ多くの人が集まるとは思ってもみませんでした。

とりあえず、案内板があったので読んでみます。

日本で一番縁起の良い名前の神社(鳥取県日野町)
金持神社

御祭神
天之常立尊あめのとこたちのみこと八束水臣津努命やつかみずおみずぬのみこ淤美豆奴命おみずのみのみこと天之常立尊あめとこたちのみことを御祭神とする全国でも数少ない神社。国土経営、開運、国造りの神様をお祀りしています。

由来
八一〇年出雲の神官の次男が、伊勢神宮参拝のためこの地を通りかかったところ、お守りとして身につけていた神前の目付の玉石が急に重くなりました。そして、この地に宮造りするよう神夢があったので、宮造りしたと伝えられています。

金持郷は、昔、黄金より勝といわれた「玉鋼たまはがね」の産地で原料の砂鉄が採れる谷を多く所有し、金具の文字で表されるように鉄のことを「かね」と呼んでいたことから、金の採れる谷を多く持つ郷「金持」と呼ばれるようになったと伝えられています。

境内の銘木
金持神社境内には、鳥取県銘木一〇〇選中、サワラ、チャンチンの二本があり樹齢六百年位と云われています。サワラは神社の遷宮の際に屋根のコワ材として利用するために植えられたものと考えられています。チャンチンはセンダン科の薬木で、果実は目薬に用い、先人が鉄生産の予防薬として、中国より取り寄せたものと考えられています。県内では、このチャンチンの木、1本しか確認されていません。

金持姓のルーツ
日本で一番景気の良い名字の「金持」。その金持姓のもとになった地名がこの地です。歴史は古く鎌倉幕府御家人、金持広親ひろちかは1205年(元久二年)から守護職として、この伯耆の国を治め、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、国宝・太刀「童子切安綱」で知られる日本最古の刀匠、伯耆安綱を輩出しています。「吾妻鏡」などにも記載のある由緒のある名字の「金持」。全国の「金持さん」、自分のルーツを探しにぜひこの地へ。

金持景藤かねもちかげふじ公が必勝祈願
この地の豪族、金持景藤は、1333年(元弘三年)、隠岐を脱出された後醍醐天皇を奉じて討幕の軍に参加し大活躍しました。その際、金持神社に必勝祈願し、神前しんぜん戸張とばり御旗みはたにしたと伝えられています。京都への遷幸せんこうの折には、天皇の右側に名和長年なわながとし公・左側が金持景藤かねもちかげふじ公で、「にしき御旗みはた」を持ち上洛しました。金持大和守景藤公のお墓と伝えられている宝篋印塔ほうきょういんとうが金持地内に現在も残っています。

開運伝説
「長谷部信連公の再起」
平家物語や源平盛衰記など多くの古書で快男児としてうたわれている長谷部信連公。1180年(治承四年)、後白河法皇の第二皇子の平氏追討計画が事前に発覚、信連公は密かに皇子を宮殿から脱出させ、孤軍奮闘しました。そのため七年間、金持郷に流刑の身となりました。

その間に日野町にとって大切な延歴寺、長楽寺、祇園神社などを残しています。平氏滅亡後、源頼朝御家人七人衆の一人として、安芸国宮島の検非違使、能登国の地頭職として山中温泉の発掘等を手がけ、のちに加賀百万石前田家の筆頭家老職(穴水城主)として明治まで続く長氏の始祖となりました。

どうも、これだけ、若者がこの地に集まっている理由は、長谷部信連がかかわっているらしいです。携帯で理由を調べてみると、「金持神社」でお参りをすると、宝くじが当たるといわれていると書いてあります。実際に当たった人たちが書いたと思われる絵馬がたくさん掲載されているのです。

いやいや、自分はルーツを辿る旅に来たのです。山根さんにわざわざ福岡から車で来てもらって、長谷部信連や金持氏、名和氏などの歴史が刻まれる真実を知ることができて十分満足です。

でも、たまたま、サマージャンボ宝くじを買っていたのです。

だから、「長谷部信連の子孫なんだから、当ててください」と、ロクデナシ根性まるだしで参拝することにしました。

それは、それは念を込めて。


そして、今回のルーツの旅は終了。家路に向かいます。神奈川の家までは、7時間半ほどかかりますが、無事に旅を終えることができました。


もちろん、宝くじは当たりませんでしたが、自分にとっては、宝のような経験ができた旅だったので、よしですね。ありがとうございます。


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