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■【より道‐39】語られない日中戦争_蒙彊と張家口②

よくよく学んでいくと、自分の戦争観は、太平洋戦争と日中戦争がごちゃ混ぜになっているということがわかってきた。というか、やはり太平洋戦争の印象しか残ってない。物事の本質を学ぶことをしてこなかった。いや、意図的に隠されてきたのではないだろうか。

自分なりに過去の「100年戦争」を、もう一度整理してみるとポイントは三点だとおもう。

一点目:欧米列強国が大清帝国はじめアジア諸国を侵略し植民地にした。

二点目:大清帝国が崩壊し中華民国が建国されたが、東北軍、共産党軍、国民政府軍の覇権争いが発生した。

三点目:日本国民の熱狂。大アジア主義の理想を掲げ欧米列強国をアジアから追い出そうという風潮となった。そして、日本政府・陸軍がその思想を利用した。

日本は、日露戦争に勝利をしたことで、南満州鉄道の権益を得ることができたが、世界では大戦が起きてアジア諸国は欧米列強の植民地化が進んでいった。大清帝国は滅亡し軍閥の覇権争いが激化したが、満州地方に勢力をもっていた軍閥・東北軍を日本軍が追いやり、再び大清帝国時代のように満州人による国をつくろうと考えた。それが満州事変というところだろうか。

その後、1932年(昭和七年)に満州国が建国されて、1933年(昭和八年)に熱河省まで侵略。そして、1937年(昭和十二年)に日中戦争が勃発して1945年(昭和二十年)の終戦まで戦いは続いた。

でも、現代の中華人民共和国は1931年(昭和六年)の「柳条湖事件」(満州事変)から、1945年(昭和二十年)までの期間を日中戦争と定めているので、このあたりからすでに中華人民共和国と日本の歴史観にズレが生じている。「勝てば官軍負ければ賊軍」か。それでも、日本の言い分ぐらい知る権利はあるだろう。


【欧米列強のアジア侵略】
振り返ってみると欧米列強のアジア侵略はすさまじいものがあります。日本もアメリカに恫喝され、不平等条約を結びましたが、明治維新後なんとか近代国家となり欧米列強に骨の髄まで吸い取られずにすみました。しかし、「大アジア主義」を唱えたくなる気持ちもわからないでもないです。

【欧米列強の植民地】
■ イギリスの植民地:インド、ミャンマー、マレーシア、インドネシア、清国
■フランスの植民地:ベトナム、カンボジア、ラオス、清国
■アメリカの植民地:清国
■ドイツの植民地:清国 
■オランダの植民地:インドネシア
■ポルトガルの植民地:インドネシア
■ソ連の植民地:モンゴル
■スペインの植民地:フィリピン


【中華民国の内乱】
大清帝国が滅亡して様々な馬賊や軍閥が群雄割拠していましたが、チカラをもったのは、蒋介石の国民政府軍、張作霖・張学良の東北軍、毛沢東の共産党軍でした。張学良の東北軍は、関東軍の謀略により満州国から追いやられると蒋介石の国民政府軍に加わることになります。

すると共産党の毛沢東は、「抗日民族統一戦線」を結成して、みんなで一緒に日本を追い出すべきだと唱えだします。共産党の敵である国民政府軍と日本軍を戦わせて互いに消耗させる作戦です。そこで、日本に恨みをもっていながらも国民政府軍に加入した張学良に目をつけ話を持ちかけました。張学良は、「中国にとっていいことだ」ということで、共産党軍との戦いを控えるようになりました。

その様子をみた蒋介石は、共産党軍の罠だと怒り狂い張学良軍が駐在している西安へ攻撃督促をしに行くのですが、逆に捕らえられてしまいます。これが「西安事件」です。共産党内では「蒋介石を銃殺するべき」などの話もあったそうですが、一緒に日本に対抗するべく手を組むことを約束させ蒋介石を解放したのでした。このときに、蒋介石は日中戦争へ突き進む覚悟を決めたということになります。

【日中戦争勃発】
日中戦争は1937年(昭和十二年)の「盧溝橋事件ろこうきょうじけん」がきっかけといわれています。内容は、中華民国の北京近隣にある盧溝橋で日本軍と中国軍の間でおきた衝突事件になります。この事件をきっかけに中国革命軍との全面戦争に発展していきました。

まず、そもそもなんですが、なぜ中華民国に日本軍が駐屯していたのでしょうか。これは、時代をさかのぼりますが、1900年(明治三十三年)に起きた「義和団事件ぎわだんじけん」からの流れです。欧米列強に侵略された清帝国の国民が外国人たちを追い出す運動です。これが義和団事件。さらにそのながれで、清国政府も呼応し列国に対し宣戦布告「北清事変ほくしんじへん」が勃発しましたが、日本・ロシア・ドイツ・イギリス・アメリカ・フランスなど8ヵ国が鎮圧しました。

多国籍軍は講和条約に基づき、ただちに撤兵することになりましたが、この講和条約のなかに、在留外国人を守るために軍隊を駐兵してもよいという条項がありました。これは、日本だけではありません。イギリスやフランス、アメリカなども同じ理由で軍を駐屯していたというわけです。

その日本駐屯軍と中国軍の間でイザコザが起こるわけです。日本軍は盧溝橋で夜間演習をしていました。夜22時頃だそうです。そこに、中国軍側から数発の実弾が撃ち込まれました。このとき点呼をすると、一人の兵士が見当たらず、行方不明となります。軍部全員で一人の行方不明者をさがすのですが、何てことありません。この人は、一人立小便をしていたらしいです。

隊列に戻ると、みんなが行方不明者を探している。当の本人も一緒に行方不明者を探していたらしいです。そんな、コントみたいなことをやっていると、午前三時ごろ、再び中国軍から実弾が撃ち込まれてきました。

そこで、牟田口廉也むたぐりれんや大佐、この人も「一夕会」のメンバーでしたが「皇道派」だったため、軍中央部から左遷させられ中国の地にいました。この牟田口大佐が、「撃ち返せ!」と独断命令をして「盧溝橋事件ろこうきょうじけん」が勃発したのです。

実は、「盧溝橋事件」勃発の真意は未だに解明されていないそうです。スターリンが、中国共産党の劉少奇りゅうしょうきが部下を使って起こした事件ともいわれていますし、抗日大学生が両軍に爆竹を鳴らしたとか、関東軍の謀略だの色んな噂があるようですが、「西安事件」で共産党軍と国民政府軍が日本軍を追い出そうと手を結んでいるわけですから、遅かれ早かれなるようになった事件ということです。

でも、この「盧溝橋事件」が勃発してことで、自分のお祖父ちゃんは、蒙古連合自治政府もうこれんごうじちせいふへ転勤し、まもなくお祖母ちゃんが死んでしまうわけですから我が家の運命が変わった事件ということになります。


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