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【118日目】蒙疆の首都

ご隠居からのメール:【蒙疆の首都】

>張家口が蒙疆もうきょう隣接地域であるなら、ますます、與一さんは、関東軍の可能
>性が高いねーーこの件は訂正する。稲垣武『昭和20年8月20日』によ
>れば、張家口は蒙疆もうきょうの首都となっている。

角田隆将『この命、義に捧ぐ』の記述、蒙疆と称される山西省の北部と祭哈廟・綏遠の二省および外蒙を除く蒙古の大部分を警備するのが駐蒙軍であり、根本はその駐蒙軍司令官である。オレは張家口は含まれないと読んだが、張家口は祭哈廟ちゃはる省に含まれているようだ。

祭哈廟ちゃはる省とか綏遠すいえん省とか称する地名で呼ばれる時代があったようだ。ついでにいうと、熱河ねっか省というのがあり、昭和十二年に盧溝橋ろこうきょうの一発から日中戦争が始まると、関東軍は東条英機参謀長を兵団長として熱河作戦を発動して、内蒙古に進撃し、八月二十七日に張家口、九月十三日に大同を手中に収めた。しかし、張家口や大同は熱河省には属していないはずだから、この熱河作戦という呼称もまぎらわしい。

いずれにしても、東条英機参謀長が手中に収めた大同と張家口に與一さんと貴美子さんは移り住んだことになる。ということは関東軍に属していたという可能性が強いが、いずれにしても、敗戦により、すべての財産を失い、身ひとつで日本へ帰って来た。


返信:【Re_蒙疆の首都】

1937年(昭和十二年)8月に関東軍が張家口を手中におさめたのであれば、そこから3年後に、與一さん貴美子さんが張家口に引越して、貴美子さんが亡くなってしまったということになる。

日中戦争には、大儀があったのだろうか。近衛首相や東条英機は、「東亜新秩序」や「大東亜共栄圏」など、列強欧米をアジアから追い出すということを大儀名分にしていたが、実際は、中華民国では抗日運動が盛んになっていた。

バカにしていたんだ。近衛首相や日本人は。中国から日本さまが命をかけて、欧米列強を追い出してやると。日清・日露戦争に勝利した日本が自分たちが優れていると勘違いしたのだろう。

もともとは、違うはずだ。もっともっと、弱い者の立場から武士の精神を主張していたはずだ。徳川家康の遺訓を日本人がちゃんと守っていれば、このようにはならなかったかもしれない。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」


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