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【56日目】死者たち

ご隠居からのメール:【死者たち】

親戚の戦死者にはもう一人、吉田八束さんがいる。昭和十八年五月二十日、與一さんと文子さんが結婚した時、吉田家の戸主は弟の八束さんだった。その後、フィリピンのバターン半島で戦死したと聞いている。菊二おじさんがルソン島で戦死したのは昭和二十年二月だ。

祖父勝治郎さんの死去は昭和十九年六月十四日。その時、菊二さんは戦死していないが、與一さんが家督相続の手続きをしている。曾祖母「いしさん」の死去は昭和二十七年七月二十五日。曾孫文孝は中学二年生だった。

ほぼ同じ頃、鳥取市の観音院で営まれた母方の祖父素さんの三回忌法要に列席した。まだ幼児の徹さんとの初対面はその時だ。

>大原家の先祖が「尼子」につながるのであれば、
>大原家を調べる必要がありそうだ。

大原家は松田氏の誰かが分家した一族ーーしたがって、松田氏だと思えばよいと思う。

>信谷家の件は、喜代太郎さんに息子がいて、信谷の分家になるのは、
>少々無理がある気もするけど、子供がいたとしたら、友次郎さんと同級か少し年上
>くらいだから長谷部の家に住まない限り生きていけない。財産を分けてもらうくら
>いの影響力が必要なのは喜代太郎さんが41歳で当主になったときかな。

 そうだね。隠居していたとはいえ、弥左衛門さんの影響力が強そうだ。いずれにせよ、信谷氏をつくった誰かがいる。その誰かが戸籍ではわからない。横溝さんの母方も福田氏だそうだが、福田氏は数が多すぎる。浦安の我が家の近所にも、日南、日野町出身の福田さんがいるし、ゆみ子さんが嫁いだのも福田さんだ。喜代太郎さんや左とさんの実家とのつながりはほとんどないと思う。

返信:【Re_死者たち】

信谷氏は、江戸260年のなかで分かれたのだろうけど、考えられるのは、西谷氏と分かれた時代なんじゃないかね。あと、「いしさん」の発言はやはり、気になっていて、長谷部一族は代々、尼子の血を残してきたのではないだろうか。

そこで教えてほしいのは、菫子おばさんの出身となかさんの出身。日南、日野町なんじゃないかなと予測している。

そして、三室へ来る前の大原氏、高瀬の福田氏も日南、日野町から来ているのではないだろうか。日南、日野町は、尼子遺臣が落人として流れ着き亀井氏がひそかに守ってきた。

その流れが、吉野村にまで進出し松田氏が影響力を発揮し名前を高瀬村になる。そこから、長谷部と尼子一族の近親結婚が代々続き輿一さんまで続いた。。。このようなことを想像する。

しかし、長谷部家は、つくづく国の大戦に巻き込まれてきた一族だね。

・(昭和16年)1941年12月:太平洋戦争開戦
・(昭和17年)1942年8月:見田守登さんニューギニアにて戦死
・(昭和18年)1943年5月:輿一さん・文子さん結婚
・(昭和19年)1944年6月:勝次郎さん死亡・輿一さん家督相続
・(昭和20年)1945年2月:菊二さんルソン島にて戦死
・(昭和20年)1945年9月:太平洋戦争終戦
・(昭和27年)1952年7月:いしさん死亡


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