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【17日目】平家物語

ご隠居からのメール:【平家物語】

「平家物語」によれば、長谷部信連は平清盛に反抗した罪により伯耆(ほうき=鳥取県)の根雨に流刑となったが、源頼朝の天下になってから頼朝にとりたてられて能登の守護になった。備中や伯耆の守護にはなっていない。

しかし、一族の長谷部元信の先祖が備後の上下地方の地頭になった。新見荘の地頭になったのは新見氏や多治部氏で、東寺が直営したこともある。

やはり、元信の頃、長谷部氏は備後から侵入してきたと推測される。また、尼子氏が滅んだことにより、宍道湖畔の白鹿城主松田氏が高瀬に侵入し、八幡神社を拠り所にして吉野村を高瀬村に名称を変更した。おそらくその頃、松田氏と長谷部氏が政略結婚により手をにぎったのだろう


返信:【Re_平家物語】

長谷部家の謎を考えているとかなり、楽しくなってきてしまった。いままで、興味がなかった鎌倉時代や信連の逸話までネットで調べるようにようになってしまった(笑)

お父さんの随筆をもとに、色々調べるとやはり、長谷部信連の子孫の下榎と高瀬が関係してそうだよね。随筆には下榎と黒坂の系図には、元信がないと書いてあったけど、親族であることは間違いない。下榎から高瀬までわずか23キロだということも考えると大倉山での出来事は、下榎と高瀬を行き来するときの逸話と想像する。

揉めてる近隣、新見荘のうわさを聞いた元信が、良い機会だと判断し政略結婚をした松田氏と共に高瀬村へ侵入その後、高瀬村にいた大原さんと松田さんが結婚したのかね。

・長谷部信連は伯耆の国へ配流されたと伝わる
(参考資料:「金持神社」)

・金持で3年過ごしその後、下榎に転居した
(参考資料:「日野町立日野中学校」)

・下榎に長谷部館跡がある 
(参考資料:「伯耆国古城しろ凸たん」)

・信連の「末裔32代当主長谷部氏」がご存命
(参考資料:「八百神」)

・大倉山での出来事は元信が下榎から高瀬へ侵入したのでは?
(参考資料:「鳥取県の山紀行」)

吉野里と高瀬を調べてたら以下文面を発見
-当村内には坂本里・知屋里・東田口里・西田口里・三坂里・渡田里・吉野里・加摩里・足立里・タソ里・吉河里などの里名が見え,表題には領家方鎌倉中期当村は高瀬村と中奥村とに分かれた。-

鎌倉時代には既に、吉野里から高瀬に変わっているみたい。


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