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【18日目】資料

ご隠居からのメール:【資料】

鎌倉時代には既に、吉野里から高瀬に変わっているとすれば、戦国時代に、尼子の落人松田氏が宍道湖の高瀬城から落ちのびてきて吉野村を高瀬村に変えたというオレの仮設が成立しなくなる。

――当村内には坂本里・知屋里・東田口里・西田口里・三坂里・渡田里・吉野里・加摩里・足立里・タソ里・吉河里などの里名渡田里・野里・加摩里・足立里・タソ里・吉河里などの里名が見え,表題には領家方鎌倉中期当村は高瀬村と中奥村とに分かれた。—

という資料のタイトルは? それは信用できる資料か? 証拠はあるのか?

 下榎から高瀬までわずか23キロだが、下榎から上下、そして厳島への距離は遠い。元信はそれほどの広域を動きまわったのだろうか。大倉山の元信と厳島の元信は別人のような気もしないではない。

 大倉山の鬼の伝説――鬼は先住民ではないか。侵入した地には先住民がいて、土地を奪われ、鬼になる。ロマンの陰にはきびしい現実が潜んでいると思う。

 大原さんは高瀬の隣の三室に現在もいる。江戸時代か明治時代に松田氏の先祖がやってきて、三室の大原氏をつくったといわれている。分家の亀三叔父さんが、副議長をしていたとき、大原さんの当主が亀三叔父さんのサポートをしていた。


返信:【Re_資料】

信用できるか、わからないけど、以下、サイトに記載があった

(参考資料「角川日本地名大辞典(旧地名編)」)

上下から厳島まで107キロ。歩いて24時間で到着する。厳島の戦いは、毛利方は5000の兵が集結したそうだから、元信は、同じ元信なんじゃないかね。陶家は、30000の兵。松田氏は、江戸時代に高瀬へ来たんだね。

ちなみに、信連は各地に種をまいていそうだよ。


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