偽物の愛と感謝の日々〜甘い甘いコタツの中のような日々〜

暇な時はよく自己啓発本を読む。

自己啓発本にはよく愛と感謝をすればいまこの瞬間から幸せになれますよいまこの瞬間からあらゆるものを愛しあらゆることに感謝的なことがよく書かれてある。

まぁそんなもんかもと結構真に受けていた。
てかお金も掛からへんし努力もいらんし、
今この場で即効できるしええんええやんと結構前向きに捉えていた。

でもよくよく考えてみると、
自己啓発本の著者と自分とでは欲求段階が違うんじゃないかと思う。
愛と感謝、足ることを知るのは確かに大切である。
しかし自己啓発本を書くような著者と自分とでは立っているステージが違う。
持っているお金の量が違うのだ。ということはそもそもの心の余裕が違うということとなる。

愛とか感謝っていうのはお金で心に余裕が出てきてからの戯言?というか心に余裕が出来てはじめて発生する感情なのではないか?
マズローの欲求段階説では、お金がないことに困っているような人間は自己実現を欲し得ないとある。欲求は5段の階段になっていて、人は今いる階段のワンランク上の欲求しか叶い得ない。


今日食べるものが無い者が、今日雨風を凌ぐ場所がない者が心からあらゆることに愛と感謝を感じられるだろうか?そんな状況を『足る』ことができるだろうか?

愛とか感謝っていうのは住むところと食べ物・水が確保されてからはじめて出現するものなのかもしれない。

心に余裕がある者と心に余裕がない者。
自己啓発本の著者とおれ。
この両者があいまみえることなどあるのだろうか?
その架け橋が愛と感謝であるとか言っちゃうといよいよ怪しくならないか?
24時間テレビ愛は地球を救います感出てないか?(あれはあれでめちゃくちゃ役に立ってるのも事実やけど)

もしかして自己欺瞞に陥っていた?
愛と感謝は金が掛からない、
愛と感謝は幸せの源泉であって、そのことを感じるにはお金も努力もいらない。
愛と感謝、足るを今まで努力をしてこなかった自分の正当化の道具として使っていただけのなのかもしれない。

お金がなくても大丈夫。生き延びる為に頑張らなくても・努力しなくても大丈夫。
という事への理由付けに使っていただけなのかもしれない。
これは生活が困窮してる人達が宗教にすがりつく構図にとてもよく似ている。てか同じじゃね?おれやばくね??

物(お金)が手に入らないから物の価値を貶めて物以外の物の価値を大きく見積もる。
『酸っぱい葡萄のキツネ』のあの高い所にある葡萄はどうせ酸っぱいからむしろ食べなくてよかった的な悔しまぎれ感さえある。

愛や感謝はお金では買えない。
でも愛や感謝を本当に実感したければ心の余裕が必要だ。
その心の余裕は生活の基盤を支えてくれるお金があることで主に作られる。
愛や感謝をお金では直接買えないが、その恩恵を十分に受けるには心の余裕という名のお金が多分必要だ。

明日食べる物が無い状況で世界を愛せる訳がないのだから。

それでもやっぱり、
世界に対して愛し感謝すればその瞬間から心の余裕が生まれるような気もしなくない。ってかそうであって欲しいしできそうな気がしなくもないような気がする。(希望的観測?)

でもやっぱり明日食べる物明日飲む物が無い、明日住む場所がない状況(=無職的状態)はあまりにも不安で愛・感謝を感じている余裕すらない気がする。

まぁ、適度に働き、適度にお金を稼ぎ、適度に愛し、適度に感謝せよってことなのだろう。

結局なんでも、
適度=中庸が大事っていうごくごく当たり前でベタなことに落ち着いてしまう。

愛・感謝すればその瞬間から人生一足飛ばしなんてことは多分ない。

僕らはショボい日常の階段を0.1歩ずつショボく登って、
後からうしろを振り返って見た時に『めちゃくちゃ高い所まできてるやん!』と感じることしかできないのだろう。

結局は驚くぐらい地味な日々の積み重ねでしかない。
多分それは驚くほどの偉業をなし得た人間も驚くほど凡庸な人間も変わらない。

なにをやるにも毎日びっくりするほど地味!

何かをする・行動するとはまずその地味なことに耐えうることからだと思う。

当初の愛とか感謝とかどこいってん?

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