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わたしがあなたのこであるざいあく ~『ボーはおそれている』雑感~


アリ・アスター監督『ボーはおそれている』を観た。


アリ・アスター監督は『ミッドサマー』くらいしかきちんと観たことがなく、その『ミッドサマー』さえ劇場で観て以来一度も見返せていないので「めちゃくちゃキツくて最悪で一周まわってハイになる系の、超常現象に頼りすぎない良質なホラーをつくる愉快なお兄さん」という曖昧きわまりない印象しかないが、そのたった一回の『ミッドサマー』が強烈過ぎて忘れられず、勝手にめちゃくちゃ信頼している御方である。そんな方の新作がまた映画館で観られるということでたいへん楽しみにしていたので、179分という脅威的な尺に(主に尿意と腰痛の観点から)震えつつ、喜び勇んで観にいった。結果、とっても満足しているし、ほんとうのほんとうに最悪な気分になれる映画だったので一周まわって大興奮している(膀胱と背骨も無事だったのでよかった)。

日常のささいなことでも不安になる怖がりの男ボーはある日、さっきまで電話で話してた母が突然、怪死したことを知る。母のもとへ駆けつけようとアパートの玄関を出ると、そこはもう“いつもの日常”ではなかった。これは現実か? それとも妄想、悪夢なのか? 次々に奇妙で予想外の出来事が起こる里帰りの道のりは、いつしかボーと世界を徹底的にのみこむ壮大な物語へと変貌していく。

映画『ボーはおそれている』公式サイト イントロダクション&ストーリーより引用


たいへんおもしろく深掘りのしがいがある、非常に最悪な映画だったので、おそらくもうたくさんの映画ファンの方々が、考察や感想、レビューをインターネットへ放流していることだろう。ゆえにいまさら私が考察もどきをこねこねこねくり回す必要性はない気がする。ので、今回の文章は単なる雑感に過ぎず、またある種の短い懺悔に近い。そしてこの「罪悪感」こそが、『ボーはおそれている』が孕み、かつ嬉々として放出している、根源的な恐怖の一端なのだと個人的には思っている。


今作を観にいきたくてうずうずしていた頃、ふと見かけた感想のなかに、「『ボー~』を観て泣いてしまった」という方がいた記憶がある。なんだなんだ、実は存外救いのある感動系なのか? それとも『ミッドサマー』みたいに一周突き抜けた結果、セラピーと錯覚してしまうような悍ましさがあるのか……なんて気になりつつ拝読したわけだが、どうやらそういうわけでもないらしく、その方の文章には「罪悪感」「ずっと責められている感覚」「許してほしい」といった、非常に切迫した感情が綴られていた。
コマーシャル映像を観るだけでもなにかから逃げ回る場面が頻出するようだし、最初はそういう、常になにものかから逃げなければならない「追いかけられる恐怖」から、そうした切迫した感情が生じたのかと思った。しかし、いざ映画を観、物語の終末までを見届けた今となっては、その方が感じた罪の意識にも似た恐怖心の本質が、それなりに理解できるような気がする。


この映画の底意地の悪さは、観客の共感の対象であるはずの主人公が経験する、多大なる恐怖と苦しみ、そして気持ち程度の「自分がなにものかになれるかもしれない」という希望その他を2時間以上じっくりと見せつけた挙句、最後の最後でそれを徹底的に覆し完膚なきまでに叩きのめしてくるところに表れていると思う。フィクションでお馴染みの、主人公の変化、成長、自分を抑圧する強大な存在からの脱却、現状の打破といったカタルシスをことごとく逆手に取って、主人公視点の「成長物語」がどれだけエゴイスティックで他者を踏みにじるものなのか、という「他者」視点の主張を、清々しいくらいに主人公、そして彼に感情移入しかけていた観客たちへ押し付けてくる。



《おまえがおまえのエゴで取ってきた言動によって、私はこれまでこんなに傷付いてきた》という苛烈な主張。あまりに一方的で暴力的なものだから、にわかには受け入れ難いし突っぱねて否定したくなるのだけれど、どこか完全に言い逃れできない後ろ暗さが主人公にもきっとある。しかもその後ろ暗さの要因が「生まれてきたという事実そのもの」に及んでいるものだから、観ている私のほうにも、その暴力的な罪悪感はじわじわとのしかかってくる(そう感じてから思い返すと、冒頭なんてめちゃくちゃ悪趣味でいっそおもしろい。いやなんもおもしろくないですけど)。
私は少なくとも、その罪悪感におぼえがある。「あなたの子どもとして生まれてきてごめんなさい」という、もうどうしようもない──生まれた瞬間から覆しようのない、償うすべのない後悔だ。子が生まれてくる親を選べないように、親も生む子を選ぶことはできない。「私なんかがあなたの子であったせいで、あなたにどれだけの苦労や苦痛を負わせてきたのだろう」という、底知れない罪の意識である。
どれだけのひとが、この感覚に怯えた経験があるのかはよくわからない。まあ、少なくとも私には多少ある。人生のどこかで家族とのあり方に悩んだことのある人なら、自身を省みてそう思った、あるいは誰かからそうやって否定された、そんな瞬間があるのではないかと思う。もしかしたら家庭以外で、なんらかのハラスメントによってそう感じることを強制される場合もあるのかもしれない。どんな経緯であっても、自身の生を「悪」と認識してしまった、あるいはそう認識するように仕向けられた瞬間の恐怖は、そう簡単に克服できるものではない。


正直この映画の場合は、その押しつけ度合いがまあ尋常でないので、最後まで主人公の味方として物語を見ていられるひとが大多数を占めるのだろう。そもそも、「おまえが生まれてきたせいで私はこれだけ苦しんだ」という意見は、絶対に、なにがあっても他者に押し付けていいものではない。実際に言われたら「うっせえバーーーーカ!!!!!」でコミュニケーションを終わらせていいレベルのイカレオピニオンなので、その押しつけを正当化できてしまう異常な存在が出現することこそが最大の恐怖、という楽しみ方をするほうが絶対に健全だ。
それでも救いがないのは、富と権力を総動員してその悍ましい主張を主人公に押し付ける怪物のような存在そのものが、主人公への愛憎に苦しんでいるらしい気配が垣間見えるところである。選択した方法や思考回路は明らかに常軌を逸しているため、単純に「意思疎通なんてまったくできない怪物」としてみることが可能な存在ではあることは間違いない。しかし、そこに愛情と、愛情では上書きし切れないごく一般的な失望や苦痛を勝手に読み取ってしまったせいで、なんって最悪な気分になる映画をつくるんだもしやこれをつくったのは天才さんなのでは?なんて現実逃避をしながらエンドロールを眺めているしかなかった。


以上、そんなかんじのことをどうしても考えてしまったものだから、私個人としてはかなりの恐怖を感じたし(ぶっちゃけそういう意味では『ミッドサマー』の100倍は怖かった)、家に帰ってからうまく家族の顔が見られなかった。だがこれは間違いなくかなり拗らせた側の観客の意見である。純粋にたのしくて最悪な映画を観た人間の感想としては、

・ブラックなコメディとして最高レベルの出来な気がする
・ホアキン・フェニックスの足が速すぎて草
・最悪~~~~!!! 最悪に次ぐ最悪~~~~~!!!!!(最悪なIKK●さん)
・ア~~~そういうことね!!! こういう人間がいちばん富と権力を持っちゃいけないだろいい加減にしろ
・アリ・アスター監督は支配・被支配関係が存在する家族を描くのがうますぎじゃないか? 大丈夫? やっぱりなんか闇抱えてない??

といった非常にたのしい感想が出てくる、めちゃくちゃおもしろい映画だった。なんでも許せる人間向けの映画ではあるが、怖いものみたさで観てみるぶんにはとても良質な最悪映画だと思う。ぜひぜひ配給会社のロゴが出てくるあたりから、じっくりねっとり楽しんで観ていただきたい(私自身は「あれ? これどっかで……」と違和感を覚え、最後のほうで確信を得、「おいこれ最悪だろ!!!!!」とめちゃくちゃ興奮した)。
難解な作品だが緻密で芸術的でエンタメ性も文句なし、単なるカオス映画として終わらせてはあまりにもったいない作り込みなので。

ほんとうにありがとうございます。いただいたものは映画を観たり本を買ったりご飯を食べたりに使わせていただきます。