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司法浪人だった僕が30代で未経験からエンジニアに転向し、現在ギルド型組織の社長に至るまでのターニングポイント(前編)

こんにちは。すき家の牛丼のご飯を豆腐に変更できることを最近知った、ギルド型組織UZUMAKI代表の工藤(@ToraDady)です。

新しい人と出会うと、変わったキャリアですね!と珍しいパンダを見るような目で見られたり、なぜそういうキャリアチェンジができたんですか?と聞かれることが多い。

特に、当時30代なったばかりのプチおじさんの俺が情報処理系の学科も出ていないのに、そこそこの定収入のある営業職のサラリーマンを辞めて、ゼロからエンジニアになろうと決意した経緯は興味をもたれるようだ。

先日、働き方改革の特集記事で日経新聞の記者からインタビュー受けたときも、キャリアチェンジするきっかけなど根掘り葉掘り聞かれたくらいなので世の中の関心事として、働き方というテーマは大きいのだろう。

人はなにか新しいことを始めるときや結果が出たとき、facebookでキラキラした投稿するが(俺もする)、その背後にあるモヤッとした動機や過程をあまり語りたがらない。語ってもなぜかきれいなストーリーになってしまう。ましてや、なぜそういう意思決定ができる環境にあったのかというところは表には出てこない。

この記事は、そういった表に出にくいところにフォーカスしてこれからのキャリア形成に悩む方の役に立てばいいと思い書いている。

想定読者は、

- 司法試験失敗して途方に暮れてる若者
- エンジニアになりたいおじさん
- 今の仕事に疲れたおじさん

には役に立つんじゃないかな?だって、俺の通ってきた道だから。

この記事で意識しているのは、

ターニングポイントごとにどういう状況下と思いで決断したか

ゼロから何かを始めるときどういう工夫をしたか

このあたりを踏まえて書き進めていく。

では、はじめよう。


司法試験の入り口その1 〜少年が大志を抱いた〜

20歳の誕生日くらいに弁護士になろうと思い勉強をはじめた。

その当時、とにかくバイトが長続きしなかった。クビになった数は10回以上。理由は様々で、どれだけ努力しても寝坊する。空気が読めない。

親の愛のムチで、当時親からの金銭援助なく大学生活していたこともあり、バイトをクビになるというのは、ガチで将来に対しての大いなる不安を煽られた。

振り返って見るに、社会的な適合性がないから食える資格の弁護士資格とちゃおうというノリで合格して、実際活躍している人は割といる。自分の司法試験の入り口としては、ありがちな話だろう。また、社会から阻害されているという歪んだ認知を強めに持っていた自分としては、最大の敗者復活戦で負けられない戦いだった。(かわいい)

司法試験の終わり1回目 〜夢打ち砕かれる〜

その当時は、法科大学院という制度はできたばっかりで、大学院に行かなくても司法試験を受験することができた。20歳から勉強をして22歳で初受験。最初のハードルである短答式試験(マークシート)で撃沈。その後2回受験するが同じ関門で撃沈。

どれくらいギリギリ不合格かというと、割と距離があった。なので、受験専念後に金銭援助してくれた親からも仕送り打ち切りの宣言もされたし、当時付き合っていた彼女(今の妻)からも、続けるなら別れていいよと爽やかに言われていた。

なので、このときのターニングポイントは、働くという選択肢以外なかったので就職の道を選んだ。そのとき25歳。

司法試験の入り口その2 〜夢再び〜

社会不適合かと思っていたが、居場所はあった。そこは個人事業主としての保険の営業であった。組織の中で空気を読んで動くことは苦手だったが、新しい見込み客をみつけて営業をし、結果を出していくということは苦手ではなくむしろ得意だった。なにより、大学時代に数々のバイトの失敗を重ねる中で傷ついた野良猫級に感性が高められており、見込みがあるお客かどうかの嗅覚が鋭かったのだ。

ただ、売上を上げ続けないと生きていけないフルコミッションの世界は辛かったし、そんなこと一生できないとそのときは思っていた。(世の中のしゃちょー見てごらんよといいたい)

辛くなったとき、人は夢の世界に浸りたくなる。本当の人生はこんなはずじゃない。そう、俺は弁護士になるはずだったのだと。

モルガン・スタンレーに勤めていた妻も、一年くらい仕事休んで英語漬けの生活をしてキャリアの幅広げたら?みたいな仏の笑顔で一年間養ってくれた。

その後、転職をして外資系の会社でサラリーマンの営業職を得て、同時に夜間の法科大学院に入学した。28歳のことだ。

気持ち的には受験生一本で行きたかったのだが、新司法試験合格率の高い法科大学院に落ちたのと、リーマンショック直後で生活が成り立たなくなるリスクを恐れていいとこ取りをした。そう、金銭的な安定と、夢を並行させることにしたのだ。

若さってすばらしい。このときは希望と情熱しかなかった。一回諦めた夢にもう一度挑戦する。なんだったら、ドラマになるんじゃないか?くらい思っていた。

司法試験の終わり2回目 〜また夢打ち砕かれる〜

希望と情熱の生活は割と続いた。2年ほど。仕事面では、結果を出していたので無意識的に発揮される嫌われる勇気がありつつも、まあまあ居場所を確保していた。また、大学院も過去の法律の勉強の貯金もあったおかげで2年目には学費を半額免除してもらったりとそこそこの期待の星のつもりでいた。

回っていた歯車が崩れた直接の出来事は覚えていない。ただ、一つ言えることは、異常に睡眠時間が少なかったこと。仕事は、断る力を発揮して9時出社で18時に退社したが、2つ隣駅の法科大学院の授業が18時半から22時前まで。深夜0時まで復習して、帰宅しシャワーを浴びて課題として出されたレポートを書いて午前3時に寝る。土日は法科大学院に朝から晩まで缶詰。その合間にリア充を発揮して飲みに行ったり、祝日をつかって妻と旅行に行ったりしていたのだから、平均睡眠4時間切ってただろう。

崩れてからが早かった。仕事では、見積書の金額のゼロを一つ抜かすなどのミスを連発し、もともと距離をおいて付き合っていた職場での居場所はなくなり、勉強面では、昨日学んだことを今日思い出せないという不思議な状況が続いた。

不調になってしばらく経った大学院の前期の試験中、どうしても息苦しくなり教室を出た。帰り道でもう戻ってこないんだろうなと直感的に思っていた。病院に行くと鬱症状が出ているといわれ、仕事も休職した。もちろん、学校も休学。

このときのターニングポイントで選択肢は、3つあった。①両立が不可能である以上、夢を追いかけて仕事を辞めて勉強に専念する。②両立が不可能である以上、現状の仕事で信用の回復に努め職場復帰する。③新たに見つけたワクワクにチャレンジする。

①は現実的に無理だった。金銭面での援助がないと成り立たない選択肢の中で、数年後に合格する可能性が高いといえない自分が妻を説得するのは無理ゲーだ。

②トライをしてみた。休職後に復帰してみたのだ。しかし、いわば自分は腫れ物。とても難しそうな選択肢だ。

③幸いなことに新しいワクワクを既に見つけていた。ただそれは、現実的なものなのかどうかは、当時はわからなかった。御歳30歳の後半。

未経験からエンジニアへの道 〜何が俺を突き動かしたのか〜

時期は前後するが、法科大学院に入った年の2009年の9月くらいにiPhone3GSを購入した。当時、パソコンをまともに触ったことなかった俺は、職場でバカにされた反骨精神からドヤれる何かを探していたのだ。Apple信者だからWindowsのことはよくわからないんですと言えるのがかっこいいとおもってた。なのでMacもこの時期一生懸命さわっていた。

当時Evernoteが世の中に出て衝撃を受けた。pcで書いた勉強のメモをiPhoneで見ることができる。それ以外にもDropbox 、今は見る影もないSugar sync に魅了され、どんどんデジタルにのめり込んでいった。

ある意味それは必然だった。法律の世界はとにかく本が重い。専業受験生は、キャリーバックに教科書を詰め込んで大学院と自宅を行き来するくらいのボリュームだ。働きながらの俺はとてもそんな重いものは運べない。なので、本をPDFにする「自炊」というものが流行り出しており、俺はせっせと本をバラしてScan snapに読み込みデータで読むという生活をするのは当然だった。

そのうち、本をデータ化するだけでは飽き足らず、PDFにAdobe Acrobat のリンク機能をつけて法令集のPDFと基本書のPDF、さらには判例集のPDFに相互リンクをはり階層的に情報を整理したり注釈をつけて、データベースのようなものをつくって悦に浸っていた。気がついたらFileMakerつかってデータ管理までしようと頑張ってたりした。手段が目的化するとはまさにこのことなんだが、iPhoneでも何か勉強に役立つアプリはないかな?とすっかりそっちに夢中になっていた。いつしか、自分の勉強に役立つ司法試験のアプリを作ってみたいとおもったのだ。

さきほどの③のワクワクを見つけたとは、このことだった。司法試験アプリをつくりたいってこと。少し広い言い方をすると、エンジニアとしての人生に興味をもったのだ。


ゼロベースでエンジニアになるためにとった行動 〜いい話〜

知り合いに相談する

会社を休職して、だいぶと心も落ち着いてきた。なので動くことにした。

iPhoneアプリを作ってるエンジニアの友達なんていなかった。だから、知り合いで情報処理系の院まで出ている頭の良い友達(PFNに今もいる)にiPhoneアプリつくるエンジニアになりたいのだがという相談をした。

ー>彼曰く、おなじような相談をよく受ける。体感的にアプリをつくりたいという素人が100人いたら、Macを買ってXcodeをインストールしてiOSのディベロッパー登録をして実機(自分のiPhone)に真っ白な空のアプリを表示させるところまで進むやつが10人。実際につくってApp Storeに申請してリジェクトの壁を乗り越えつつ無事リリースされるところまで持っていくのは1人くらいだろうなと。俺はその話を聞いた時、Xcode?ディベロッパー登録?ってなに?リジェクトって?な状態だったのでひどく道のりの遠い話に聞こえた。

妻にも相談した。

ー>なんともいえない遠い目をしていたこと以外覚えていない。困った。

Twitterで検索してみる

アイフォン 開発 初心者 で検索したと思う。売れるアプリの作り方的な本を出版した方のイベントを見つけて参加した。

これがバッチリ正解だった。そこには、現在アプリを作っているエンジニアがごろごろいた。イベントなんで、懇親会があり色んなエンジニアと話すことができた。

情報収集があたらしいことを始める第一歩。検索したり、イベントに参加して鮮度のいい情報を集めよう。

モクモク会で学ぶ

イベントで知り合ったエンジニアに誘われて、コワーキングスペースで定期的に開催されるモクモク開発会(わからないことを教え合いながらみんなそれぞれ作りたいアプリをモクモクと開発する)に参加した。

開発力をつけるには、なんてったって実際に手を動かしてコードを書かないといけない。いわば筋トレみたいなもの。素人が独学で学んでると、丸1日原因不明のエラーで悩むことはよくある。現役エンジニアならものの5分で問題解決することは非常によくある。なぜなら、みんな通ってきた道だから。先人の知恵を借りよう。

お金で解決する

モクモク会で仲良くなったメンバーが親切にわからないことを教えてくれることはある。ただ、彼らも目的があってモクモク会に来ている。

経験者の知恵やアドバイスがまとまってほしいとき、俺は別の日に時間をつくってもらって教えてもらっていた。時給は5,000円支払って。当時収入がなかったので安い金額でなかったが、逆に、払った以上のインプットと経験を買ったと思って感謝して支払っていた。

ゴールを設定する

6ヶ月でアプリを作成して、その成果物をもって就活をしてエンジニアとして転職をすることとした。

アプリのイメージができたら作り出す。当然素人の思い込みなんで実装の難易度なんてわからない。最初の3ヶ月は開発をしているのか勉強しているのかわからない状態だった。なので、力のあるエンジニアに相談しながら、今の自分でつくれること、あきらめることを決めてできることだけに集中した。

結果は、なんとか5ヶ月でアプリをリリースして、1ヶ月間転職活動して内定もらった会社にエンジニアとして就職した。

個人的な話は次のNoteの記事に続く

ここまでの記事は、エンジニアとしての職を得るところまでだ。

司法浪人の苦労はここで区切られるのだが、エンジニアとしての苦労はそのあと3年続く。そしてその後から急に人生が好転し始めるのだが、書き出すと止まらないので一旦筆を置く。

ここまで読んでくれた方へ

まとめになるんだが、キャリアを変更をする決断には2つの軸があると思っている。マイナスをゼロに戻す決断と、プラスを高める決断だ。それぞれの局面では違った判断が必要になる。

マイナスをゼロに戻す決断とは、生きるか死ぬかに直結する判断だ。例えば、俺の司法試験1回目の終わりのタイミング(三年連続不合格で親と彼女から支援と愛情の打ち切り)のときがまさにそう。このときにどう動くかの件だ。

この時25歳で社会経験なし。もしかして、死ぬ気でお願いしたらもう1年勉強させてくれるかもしれない。ただ、もともと、芽が出なかったら辞めると公言していたのを撤回することになるのだから、ズルズル30歳くらいまで行ってしまう可能性が出てくる。そうすると、なんの社会経験のないまま就業の機会を失うことになりかねない。これは、生存に関わる問題だ。

キャリアチェンジを考えている方でこのようなケースでの選択は、生存可能性を高めるのはどちらかを考えるのが良い。まずは、明日のパンが大事なのだ。遠くのケーキではない。

一方で、プラスを高める決断とは、生きるか死ぬかに直結しない選択だ。実は2回目の司法試験終わりのタイミングがそうなのだ。

メンタル的には参っていたが、原因ははっきりしていて睡眠不足からくる自律神経の異常から来るものだった。なので、時間が経てばなんとかなる問題であった。(結果オーライ)

このとき、エンジニアになるという選択肢をとって半年仕事休んだが、まず、収入がゼロでも半年間は生活できる貯金をもっていた。つまり、明日のパンには困らない。また、既に営業としての社会経験とスキルを持ってる上に、割と英語が話せるようになっていた。なので、生きるために営業をして生活することは半年のビハインドがあっても問題がなさそうだった。

キャリアチェンジで新しいことにときめいている方は明日のパンがあるかどうか確認してほしい。持っているなら、是非挑戦してみてほしい。チャレンジは、決断することより、決断し続けること(継続すること)の方が難しいという事実はある。しかし、その難しさも自分の内在的な思いに裏打ちされたチャレンジだったら乗り越えれるだろう。詳しくは、また今度でも。

この文章、キレイな話になってない?(心配)


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