究極「気にしない」だなと着地した話し。
長かったのか短かったのか?
わたしが「自分どこいった?」と探し出したのは2015年の夏頃。
3番目の子が17才。
とうとう「母親」が要らなくなって来て「あれ?わたしは誰だ?」と大きく立ち止まれたことからだった。
当時、すごいびっくりしたのを覚えている。
今、振り返ると「一生懸命に母親やってた」ということでしかなかったのだ。
その不要になっていく様で、やっと自分を優先的にすることが心地良いののなのだと学び始めるのだ、が、そこまでの26年間ずーっとこども優先できたものだから、いきなり「それがあなたの心地よさ」とか言われたろころでできるはずはない(笑)
この訓練?のために一つ一つ階段という段階を経てここまで辿り着いたのだろうと思う。
急遽「何事も気にしない」とは「反応しない」のとちょっと違う。
とあるスピリチュアルなカウンセリング団体に所属した時に「生きていくコツは反応しないこと」と君臨している人が言っていたのだ。
当時はその言葉が「真髄だ」と思ったのね。
当時わたしはいろんなことにすぐ反応していたのだ。
何か言われては怒ったり、イライラしたり、泣いたり、わたしは不用品だ、欠陥品だと嘆いたり、この世から消えてなくなえればみんな平安になるんだろうよ、といっぱんてきに言われているネガティブ方向にしか反応できなかったのだ。
なので、その言葉を聞いた時は「反応しなくていいんだ」と思ったのかな。
反応しすぎてる自分に出会ったのだろうか。
無関心でいることとは受け取らなかったので、それは良かったというか、いきなり無関心になったら家族はきっとお母さん病気になったと思っただろうな。
この時の訓練的なことは「ふーん」と自分から切り離して物事を見るようにしたことかな。
昔、父親から受けていた虐待で培った「分離術」を使って(笑)。
他の言葉で言うと「俯瞰」「達観」であろうが、わたしの分離は致し方なく会得した「自分のなかから、自分を抜く」で、体罰や言葉の痛みからの直接的なダメージを受けないようにプロテクトするものだったのだ。
小さなわたしが自分を守るために発動したって、すごくない?
こんなもの教わってませんものねー(笑)
そんな分離術を自覚して、反応しないことに使い始めたのだ。
この頃の気づきはたくさんあった。
生きながらにして死ぬということも体験した。
そして、そこから10日「生まれ直し」、そのためのプログラムを自らちゃんと死ぬ前に構築していたのだからまた素晴らしい。
人は死に向かって歩いているのだけれども、同時にそれは「生きる」ことなのだね。
嗚呼深い(笑)
「ふーん」は中学生の頃友人に「いつもあんたはそういう。わたしに興味ないんやね」と怒られた時に実は封印してしまったことなのだ。
もし、その時怒られなかったら、継続して「ふーん」で要られたのだろうか?
なんせ虐待こそ、反応しないことが一番なのだから、迫られて会得していたもののひとつなのだもの。
とはいえ有事に言われたのは「興味がない」だったので、その通り相手に興味を持つことをやめていたのだろうね。
興味を相手に持つことで、いたい思いをしたのだろうか。
のんびりと当時の虐待を見てみようと今思った(笑)
で、興味を持たない=反応しないだったのが、気にしない=反応しないに変化したのは何故だろうか。
いや、書いてみて違和感だね。
反応しないのではなく、反応しても「気にない」のだ(笑)
反応と期待が入り混じっていたのだろうな。
期待することも、あーそーねしちゃうよね(笑)って思たあたりから、期待なしの反応が出来るようになってきたのかも。
続きはミーティング後に❤️
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