自覚・無自覚・事実・無意識・境地ナンジャコリャ(笑)
おはよう。
自分軸がブレてると言われてさらに揺らいでみたりしながらも「生きている」。
これが唯一の「事実」だなーと。
昨日の出来事がまた楽しかったので浮上しているうずまきです。
人生の気づきのアシストって言いましょうか?
昨日はこんな方がパスをくださったのでご紹介します。
タイトルが素敵でしょう?🌟
「絶望のススメ。」
望みを断つ。
どうそお読みくださいまし。
2019年ね、コロナ前ですが、引きこもっていろんなことやってました。
その時の方が遊んでたかな笑
毎日脳内に浮かんだ言葉を習字にして描いては壁に貼って。
自分に振り回されていた時、名前を新聞に描いては貼り、21日間やり続けると言うことをやってみたり。
その時目に飛び込んできた言葉と遊んでたな。
なんだ、素敵な感性ではないか。
その時、さらに納屋に引きこもって、気づきや学んだことを書いては真ん中を開けて貼っていってた。
で、最終真ん中に出た結論がこれだ。
事実わたしは生きている。
だったのだ。
わたしがどうあろうが、何をぐちゃぐちゃ思おうが言おうが、生きてるんだよって。
その時には辿り着かなかった境地が、これだ(笑)
わたしが今生きていると言うことは、いろんな要素が組み合わさって「生きている」と言う事実が存在しているのだ。
自覚していることでなく、無意識の領域の命たちが生きていて活かされていて、それらがお互いに絡み合って、必要として「活かされている」のだ。
わたしが「生きよう」とも思っていない無意識の領域で。
食べたものの命だけではなく
人間がその命を保存するために必要な環境要素もあってのこと。
家があって保温ができて保湿、乾燥。
それらを果たすために電気がガスがあり着るものがある。
そして食事ができる環境要素。
全てが「在って」存在可能になり、生きている。
それらもそんなに意識しないで、ただこなすように「そんなもん」としてじわじわと構築継続してきた。
そんなじわじわと無意識レベルのことで生存してきたのだ。
今、それらを自覚するべく「自分と向き合っている」のだという境地笑
言ってることがちょっとフラフラだけど笑
無意識でいいじゃね?って感覚もあるなーって。
一旦山を登ってみるわ。
ってそんな感じかな。
今、自分が「生きている」と言う事実だけが「在る」のだからして、そこからイメージするとね、じわじわっと感が動するのだ。
わたしという生き物だけでここに存在しているのではなく、今自分を取り巻く全てが一緒に共鳴しあって、応援状態で究極のバランスをとり続けながら「生きてる」のだなって感じるわけ。
それはそれは自分を含めて「自然」であって、、、
なんかね、感謝って言葉がやっぱり薄っぺらいと感じるほどに「有難い」って湧いてくるのよ。
このパワーってすごいね。
自分がここに存在してることが、こんなにも影響を受けて、同時に影響しているってことになるんだって。
無価値?
また、どうしてその沼にいたのかね?
ってくらいに感じるわ。
思考の奴隷。
パンダさんの文章に中に出てくる言葉なんだけどね、実際「奴隷」「緊張」と突き当たってたタイミングで何の奴隷だ?ってうっすら見えてたのだ。
夫にも
「あなたは悪くないの。あなたはかわる必要ないのよ」と言いつつ、サンドバッグにしてる(笑)
その日々の「出す」行為のおかげで、またわたしたち夫婦は進化しそうよ。
やっぱり
言いたいことは言いたい相手に言うこと。
まずは自分に。
そして、ただ聞いてあげる。
あなたはどうしたい?
ここ蔑ろにしてきたからさ。
自覚の始まりだね。
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