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11月19日(日)ミンナイイネ!展開催に際しての自分語り

2023年11月19日(日) ミンナイイネ!展 を開催します。

今回は ルッキズム(外見で自他をジャッジすること)の展示。

ルッキズム  という言葉にしてしまうと
「意識高い系」なんて思われたり「自分には関係無い」と思われがちですが、

意外と この世の全ての人に 多少なり関わる話で、「生き方」に通じていく話だと思っています。

「なぜ この展示の開催を考えたか 」 などを知ってもらうため 自分語りを少しさせてもらおうかなと思い 今回文章にしてみました。

私の人生での ルッキズム(当時はそんな言葉 無かったと思うけど)との遭遇は 子供の頃 、
1番最初は親からの「笑顔が化け物みたい」という言葉でした。

ある日突然、写真を撮った後 何度も「笑顔が化け物みたい」と言われるようになり それが凄く衝撃で それから一気にひとまえで笑う事が怖くなりました。

写真に写るのも怖くなりました。

小学校に行くと、 親族の宴会で 周りの友達より一回り太い!と笑い話にされて 自分の体が恥ずかしくなりました。

それからはスカートを履くのが怖くなりました。

ただ 私は 普段から親から存在を虐げられているわけでは無かったと思うし、
当時そこそこ可愛がられていると自負していたから「なぜ 急にそんなことを言うのか?」と聞くと

悪気なく「本当のことだから」と返ってきました。
「そうか、本当のことだから言われたのか。」と
まだ子供だった私の価値観にはスっと入ってきてしまいました。
(大人になってから 聞いても「本当のことだから」と返ってきたので本気で悪気なかったんだと思う)

「他人から見た自分の外見の評価 」なんて概念を知らなかった時は、
自分の見た目なんて興味が無くて そんなもの抜きで自分自身や自分の選ぶこと全てが無条件に好きだったのに

外見を腐された毒は あっという間に全身にまわり、

それからは 自分の外見も、ひいては内面や 存在そのもの まで突然ひどく粗末なものに思えるようになりました。

不思議なもので そうなると 世界の見え方がガラリと変わって、
他人のことも 刷り込まれた基準での外見の善し悪しでしか 見ることが出来なくなりました。

当たり前に悪気なく、他人を外見で一方的にジャッジするようになりました。

でもそうすればするほど心が曇っていって、やっぱり自分は心まで汚い人間だと 自分をどんどん嫌いになりました。

何がきっかけで この認知の歪みが解消されたのか 正確なきっかけは もう思い出せないけれど

印象的な出来事をひとつ 覚えていて。

当時の私は 自分の手がすごく嫌いで
中高で所属していた美術部で
「自分の手は分厚くて 短くて不細工な手で嫌いだ」と話していたら、

それを聞いていた顧問の先生が、
「その手はピカソの手だよ。物を作る人の良い手をしてる。」
と言ってくれた事がありました。

その表現が、自分の制作活動を認めてくれたように感じて純粋に嬉しかった というのと、

私が嫌いな 醜い私の手に 美醜以外の、
しかも 美醜よりも私が重要だと思える価値を与えてもらえたことで 当時の私の価値観にバキッとヒビが入ったのかなぁ と。

それがあったからか は覚えてないけど
その後徐々に 「これは良くない状態だな」と気付くことが出来て 自分なりにどうにか改善しようと

『街で目に入った全ての人を 心の中で一つ褒める。』
という事を訓練のように日々取り組むようになりました。

そうすると 最初は
「んー 髪が長い!すごい!」「目が大きい」「背が高い」「細い」「顔が小さい」

なんて 『自分の美醜の基準でのジャッジ』で適当に褒めていたのが

だんだん 他人への見方が変わってきて
「レジでお店の人に丁寧にお礼を言っていて 素敵な人だな」とか
「姿勢が良くて綺麗だな 普段から気をつけて意識している人なのかな 努力家なんだなぁ」
なんて考えるようになり
(そんなこと逐一考えながら他人を見てるのもかなり気持ち悪いと思うけど)

そんなこんなで続けてるうちに そのうち
「みんなそれぞれ頑張ってるし、みんな生きてて偉いな!」
と思い至りました。
めちゃくちゃ雑な結論かもしれませんが 笑

でも すっごく具体的に個を見ていくと
逆にすっごく大きな共通項が見えてくる というか。

そこまで 考えが行き着いた時にようやく
「みんな生きてて偉い」の「みんな」に自分のことも入れても良いんじゃないか??

と思えるようになり

「みんなえらい、私もえらい。生きてるだけで頑張ってるから 他人からのジャッジに影響を受ける必要は無い。
他人からのジャッジは 他人の中にあるもので 自分には関係がない。傷つく必要もない。」

と なんとなく 最初はなんとなくだけど腹落ちして、ようやく私は 全身に回って心にまで侵食したルッキズムの毒を解毒するに至りました。

それで今となって思うのは、
考えてみると 私の親というのもルッキズムの毒を盛られて生きてきた人なんだろうな と。

だから 疑問無く ナチュラルに 我が子にルッキズムの毒を盛ってしまった。

私は運良く 早いうちに気付いて 抗うことが出来たので 、自分の子を育てる今は むしろ気をつけて そういう価値観を刷り込んでしまわないように…。
と考えるようになりましたが

本当に運良く 気付くきっかけが無かったら
私もまた 悪気なく 当たり前に 同じ毒を我が子に盛ってしまっていたかもしれない。
と思います。

めちゃくちゃ怖い話だなとゾッとするけど、そういうことも多いんだろうなと思う。


そんな経験があって、「ルッキズム」という言葉に出会った時 最初は意味がわからないながらも なんだか気になって

調べたり 意識してその話題を見ていたら、どうも私のこの経験はルッキズムというものらしい。

名前がつくと なんだか一気に出来事やその時の気持ち、思考がどんどん整理されていって

今まで言語化出来ずに なんなく収めていたものが
すっきり片付いたような感覚になりました。

他人からの一方的なジャッジ を受け取る事をやめたこと、
自分の生き方を自分の考えと価値観で選ぼうと決めた あの日の結論は間違いではなかった
と報われた気持ちにもなりました。

「ルッキズム」というと 顔や見た目 の話が1番にイメージとして出てきますが、
実際は 心や 生き方、人生の価値観、自己肯定感 そういう内側の重要な部分に 容易く踏み込んで侵略出来てしまうものでもあって

自分の最表面である 「見た目」 への一方的なジャッジに対して 自分を守ることは、
自分の内側への侵略行為から自分を守ることに繋がるなと感じました。

「8時間展示チャレンジ」で企画する展示には 根底に
「明日が今日より少し生きやすくなるように」
という想いがあります。

明日生きてるのが楽しくなるように! だと
そのプレッシャーが もう重くてしんどいから

ほんの少しでいいから 生きやすく
生きやすくしたい  と思えるようになるだけでも良い

そういう 一番最初の1番小さなスモールステップになったら良いなぁと思うので

この展示を見て、または 開催が終わった後でもこの展示の情報にたどり着いて

ルッキズムという言葉を知って 何か辛かった経験の整理がついたり

当時の私のように 他人をジャッジしてしまう自分を嫌いになってしまった人も 少し自分を許せたり

そんな自分でも一旦いいね。
いつかは 自分も、他人も みんないいね と思えたらいいね。

と思えるような そういう未来への小さな種まきに繋がれば良いなぁと思って開催準備をしています。

とはいっても!展示のモットーは、
『思想は深く。敷居は低く 間口を広く 。』

気軽に来て ゆったり楽しんでもらえるように企画しています🙌

お子様連れも大歓迎!
キッズスペースも作っちゃう!

11月19日来て下せぇっ!!!!

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