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Cosmic Memory 3 - Our Atlantean Ancestors アトランティス人の祖先


お久しぶりです。

前回の記事のつづきがないまま数ヶ月が経ってしまいました。申し訳ないです。

私生活が慌ただしくなったのもありますが、主に私が翻訳しているGigi Young(ジジ・ヤング)さんのお話をよりスムーズに理解していただくためには、基礎的な部分を記事にする必要があると感じ、また、私自身ももっと精神科学について深く研究する時間が必要だっため翻訳を休止していました。

今後も不定期な投稿になるかと思いますが、どうかお付き合い下さいませ。

では早速ですが、翻訳をはじめます。

今回は、日本語訳がされていない(おそらく)ルドルフ・シュタイナーの『宇宙の記憶』という本を翻訳します。この本は、5ヶ月前に翻訳したMagicians of Mu でジジさんがご紹介されていた本です。(該当の翻訳記事はこちら
PDFで無料で読めます。


全ての章を翻訳するのは難しいため、重要な章のみ翻訳していきます。

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Cosmic Memory 3 -  Our Atlantean Ancestors アトランティス人の祖先



アトランティス人の祖先は、感覚だけの世界にとどまっている現代人が想像する以上に、我々とは異なっていた。この違いは、外見だけでなく、霊的な能力にも及んでいた。彼らの知識、技術、そして文明全体が、今日見られるものとは異なっていたのである。初期の時代までさかのぼると、私たちとはまったく異なる知的能力があることがわかる。

論理的な理性、算術的な組み合わせの力は、今日生産されているすべてのものの基礎になっているが、初期のアトランティス人にはまったくなかった。その一方で、彼らは高度に発達した記憶力を持っていた。この記憶力は、彼らの最も優れた知的能力の一つであった。例えば、アトランティス人は私たちのように、ある法則を覚えてそれを応用して計算するようなことはしなかった。掛け算の表というのは、アトランティス時代にはまったく知られていなかった。4の3倍が12であることなど、誰も彼の知性に印象づけることはなかった。
そのような計算をしなければならないとき、彼は同じような、あるいは似たような状況を覚えていたので何とかなったのだ。過去にどうだったかを覚えていたのだ。生物は、新しい能力が開発されるたびに、古い能力が力を失い鋭敏になるのだ。現代人は、論理的な推論や組み合わせの能力においては、アトランティス人より優れている。その一方で、記憶力は低下している。現代人は概念で思考し、アトランティス人はイメージで思考した。

彼の魂にイメージが現れたとき、彼はすでに経験した多くの類似したイメージを思い出し、それに応じて判断を下した。
このため、当時のすべての教育は、後に行われるようになったものとは異なっていた。それは、子供に規則を与え、理性を研ぎ澄ますためのものではなかった。その代わりに、人生が鮮明なイメージで示され、後に特定の条件下で行動しなければならないときに、できるだけ思い出すことができるように教育したのだ。子供が成長し、社会に出たとき、何をするにも、教育の過程で提示された同じ状況、物事を思い出すことができるのである。

彼は、新しい状況がすでに見たことのある状況と似ている場合に、最もうまく対処することができた。全く新しい状況下では、アトランティス人は試みに頼らざるを得なかったが、対して現代人は規範を備えているため、多くのことを免れることができる。初めての状況でも簡単に適用することができるのだ。アトランティスの教育システムでは、生活のすべてに均一性を与えてるよう指導していた。長い間、物事は何度も何度も同じように行われた。忠実な記憶は、現代の急速な進歩のようなものを微塵も発展させなかった。
彼らはいつも「見たことある」ことをやっていたのである。発明するのではなく、記憶するのである。

彼は多くのことを学んだ権威者ではなく、多くのことを経験し、それゆえに多くのことを記憶している人だった。アトランティス時代には、ある年齢に達しないうちに重要なことを決めるということはあり得なかった。長い経験を積んだ人だけが信頼された。
ここで語られたことは、イニシエートと彼らの学校には当てはまらない。彼らは、その時代の発展段階を先取りしているからだ。そのような学校に入学するための決定的な条件は年齢ではなく、申請者が以前の転生において、より高い知恵を受け取るための能力を獲得しているかどうかということであった。

アトランティス時代のイニシエートとその代表者に対する信頼は、個人的な経験の豊かさではなく、むしろその知恵の古さに基づくものであった。イニシエートの場合、人格はいかなる重要性も持たない。彼は完全に永遠の叡智に仕えている。したがって、現代しかり特定の時代の特徴は、彼には当てはまらない。
アトランティス人(特に初期の人々)には論理的に考える力はなかったが、高度に発達した記憶力において、彼らが行うすべてのことに特別な性質を与える何かを持っていたのである。しかし、ある人間の力の性質には、常に他の力が関係している。記憶は理性よりも人間のより深い自然の基盤に近く、それに関連して、現代の人間の力よりもなお下位の自然界の力に近い他の力が発達したのである。こうしてアトランティス人は、生命力と呼ばれるものをコントロールすることができた。

今日、人が石炭から熱のエネルギーを取り出し、運動手段の原動力に変えるように、アトランティス人は生物の持つ生殖エネルギーを技術に役立てる方法を知っていた。このことは、次のようなことから理解することができる。種の穀粒を考えてみよう。この中にはエネルギーが眠っている。このエネルギーが穀粒から茎を発芽させる。
自然は、種の中に眠っているこのエネルギーを呼び覚ますことができる。現代人はそれを自由に行うことができない。種を土に埋め、その目覚めを自然の力に委ねなければならない。しかし、アトランティス人は別の方法を知っていた。現代人が石炭の山の熱エネルギーを電力に変えることができるように、アトランタ人は穀物の山のエネルギーを技術的な力に変える方法を知っていたのだ。アトランティスでは、植物は単に食料としてだけでなく、その中に眠っているエネルギーを商業や工業に利用するために栽培されていたのである。

石炭の中に眠っているエネルギーを運動エネルギーに変換する仕組みが機関車にあるように、アトランティス人は植物の種を燃やすことで、生命力を技術的に利用可能なパワーに変換する仕組みを持っていたのである。地上を少し浮遊していたアトランティス人の乗り物は、アトランティス時代の山脈よりも低い高さを移動しており、山脈の上に上がるための操舵機構を持っていたのである。
しかし、時代の変遷とともに、地球上の状況は大きく変化していることが想像できる。今となっては、上記のようなアトランティス人の乗り物は全く役に立たない。当時、地球を包んでいた空気の密度が現在よりはるかに高かったからである。現在の科学的信念を前にして、そのような空気の密度の高さを容易に想像できるかどうか、ここで私たちを悩ませる必要はない。科学や論理的思考は、その性質上、何が可能で、何が不可能かを決めることはできない。

その唯一の役割は、経験と観察によって確認されたことを説明することである。前述の空気の密度は、オカルト的な経験にとって、感覚によって与えられる今日のあらゆる事実と同じくらい確かなものである。
しかし、その当時、地球上の水は今日よりもずっと薄かった。この薄さのために、水はアトランティス人が使用した生殖エネルギーによって、今日では不可能な技術的サービスに向けることができたのである。水の密度が高くなった結果、水を移動させたり方向付けることができなくなった。アトランティス時代の文明が私たちの文明と根本的に異なっていたことは十分に明らかだ。また、アトランティス人の身体的性質は、現代人のそれとは全く異なっていたことも理解できるであろう。

アトランティス人は、自分の体に内在する生命力が、現代人の肉体とは全く異なる方法で利用できる水を体内に取り込んでいたのである。そのため、アトランティス人は、現代人とはまったく異なる方法で、意識的に自分の身体的な力を使うことができた。いわば、自分のしていることに必要なときに、自分の中の肉体的な力を増大させる手段を持っていたのである。アトランティス人を正確に理解するためには、彼らの疲労や力の消耗に対する考え方が、現代人のそれとはまったく異なっていることを知らなければならない。

アトランティス人の居住地は、これまで述べてきたことから明らかなように、現代の都市とは似ても似つかぬ性格を持っていた。このような集落では、すべてが自然と調和していたのである。最初のアトランタ時代、つまり第三亜人種の中頃までの集落は、枝が巧みに絡み合った木で家を建てた庭に似ていると言えば、漠然とした類似の図式が成り立つだけである。その時、人間の手が作り出したものは、自然から生えてきたものである。そして、人間自身は自然と完全に結び付いていると感じていた。だから、社会的な感覚も現代とはずいぶん違っていた。結局、自然はすべての人間に共通するものなのだ。ちょうど現代の人間が、自分の工夫と知性によって作り上げたものを自分の私有財産と考えるのと同じように、アトランティス人が自然の上に作り上げたものを共有財産と考えたのである。

人間だけでなく、周囲の自然も時間の経過とともに大きく変化している。植物や動物の形も変化してきた。地球上の自然はすべて変容している。かつて人が住んでいた地域は破壊され、別の地域が誕生している。

アトランティス人の祖先は、現在のアジアより南に位置する、消滅した地域に住んでいた。神智学の書物では、彼らはレムリア人と呼ばれている。。彼らは様々な発展段階を経て、その大部分が衰退した。彼らは発育不良の人間となり、その子孫は今日でもいわゆる「野蛮な部族」として地球のある場所に居住している。レムリアの人類のうち、さらに発展することができたのはごく一部であった。この部分からアトランティス人が形成された。

その後、再び同じようなことが起こった。アトランティス人の大部分は衰退し、そのごく一部から現在の文明人類を構成するアーリア人と呼ばれる人々が生まれた。精神科学では、レムリア人、アトランティス人、アーリア人は人類の根源的な種族であるとされている。レムリア人の前に2つの根源民族があり、将来アーリア人の後に2つの根源民族が続くと考えると、合計7つの根源民族があることになる。レムリア人、アトランティス人、アーリア人について述べたように、ある種族は常に他の種族から発生する。それぞれの根源的な種族は、前の種族とは全く異なる身体的、精神的な特徴を持っている。たとえば、アトランティス人は記憶とそれに関連するすべてのものを特に発達させたが、現在のところ、思考の能力とそれに属するすべてのものを発達させるのはアーリア人である。

また、各人種群では、さまざまな段階を経なければならない。その数は常に7つである。ある根源的民族と同定される期間の初期には、その主要な特徴は若々しい状態にあり、徐々に成熟し、最後には衰退に入る。このようにして、一つの根源的民族は、七つの亜人種に分けられる。しかし、新しい種族が生まれれば、その種族が直ちに消滅すると考えてはならない。それぞれの亜人種は、他の亜人種がその傍らで発展している間、長い間、自己を維持することができる。このように、地球上には常に、異なる発展段階を示す集団が隣り合って暮らしている。

アトランティス人の最初の亜人種は、高い進化の可能性を持つレムリア人の非常に進んだ部分から発展した。レムリア人の間では、記憶の能力は初歩的なものでしかなく、しかも発展の最後の時期にしか現れなかった。レムリア人は、自分が体験していることの観念を形成することはできても、その観念を保存することはできなかったと想像しなければならない。とはいえ、自分がある文明の中で生活し、たとえば道具を持ち、建物を建てたなどということは、彼自身の発想力によるものではなく、彼の中にある本能的な力(意識)によるものであった。

しかし、これは現在の動物の本能ではなく、別の種類のものであったと想像しなければならない。
神智学の書物では、アトランティス人の最初の亜人種を「ルモアハル族」と呼んでいる。
この種族の記憶は、主に鮮明な感覚的印象に向けられていた。目で見た色、耳で聞いた音は、魂の中に長い余韻を残す。このことは、レムリア人の祖先がまだ知らない感情を、ルモアハル族が発達させたという事実として表現されている。たとえば、過去に経験したことへの執着もそのひとつである。

記憶の発達は、言語の発達と結びついている。人間が過去のものを保存しない限り、経験したことの伝達は、言語という媒体を通じては行われなかった。最後のレムリア時代に記憶の最初の始まりがあったため、その時、見たり聞いたりしたことを名付ける能力も始まったのである。記憶する能力を持つ人間だけが、何かにつけられた名前を利用することができる。
したがって、アトランティス時代は言語が発達した時代である。言語によって、人間の魂と人間の外のものとの間に絆が生まれた。彼は自分の中に言霊を生み出し、この言霊は外界の対象物に属していた。また、言葉を媒介としたコミュニケーションによって、人間の間に新たな絆が形成される。このようなことがすべて、ルモアハル族の間にまだ未熟な形で存在していたことは事実であるが、それにもかかわらず、彼らはレムリアの先祖たちとは深く区別されていたのである。

この最初のアトランティス人の魂の力は、まだ自然の力のようなものを持っていた。彼らはは、後に誕生する種族たちよりも、自分たちを取り囲む自然の存在とより密接に関係していた。彼らの魂の力は、現代人の魂の力よりも自然の力と結びついていた。したがって、彼らの発する音声は、自然の力のようなものをもっていた。彼らは物事に名前を付けるだけでなく、その言葉には物事を支配する力があり、また仲間を支配する力もあった。ルモアハル族の言葉は意味だけでなく、力も持っていた。

言葉の持つ魔力は、現代の人間よりも、当時の人間にとってはるかに真実味のあるものだった。ルモアハルス族が言葉を発音すると、その言葉は指定した対象物と同じような力を発揮した。そのため、当時の言葉は、植物の成長を促進し、動物の怒りを鎮めるなど、治療的な働きをした。しかし、アトランティス人の後期亜人種になると、これらの効力は次第に低下していった。元々持っていた力強さが次第に失われていったと言える。

ルモアハルス族は、この豊かな力を強大な自然からの贈り物と感じ、彼らと自然との関係は宗教的な性質を帯びていた。彼らにとって言葉は特に神聖なものであった。重要な力を持つある音を誤用することは不可能であった。そのような誤用は、自分に大きな害をもたらすに違いないと、各人が感じていた。正しく使えば祝福をもたらす言葉も、犯罪的に使えばを破滅させることになるのだ。ルモアハル族は、ある種の無邪気な気持ちで、その力を自分たちの力ではなく、自分たちの中に作用する神性に帰依していた。

これが第二の亜人種、いわゆるトラバトリ族の間で変化した。この種族の人々は、自分自身の価値を感じるようになった。ルモアハル族にはない野心が、彼らの中に芽生えたのである。記憶力は、ある意味で共同生活の概念に移された。ある行いを振り返ることができる者は、それを仲間に認めてもらうことを求めた。自分の行いを記憶にとどめることを要求した。このような行いの記憶に基づいて、共に属する男たちの集団は、一人を指導者として選出した。

この認識は、死を超えても保たれることさえあった。祖先や生前に功労のあった人たちの記憶、追憶が発達したのである。このことから、いくつかの部族の間では、死者に対する一種の宗教的崇拝、つまり祖先崇拝が生まれた。この崇拝は後世まで続き、さまざまな形をとった。ルモアハル族の間では、人はある瞬間、その力によって尊敬を集めることができる程度にしか尊敬されなかった。もし、彼らの中の誰かが、昔行ったことを認めてもらおうとするならば、新しい行いによって、自分がまだ昔の力を持っていることを証明しなければならなかった。そのためには、新しい行いをすることによって、古い行いを記憶にとどめなければならない。そのため、以前から行われていたことは、それ自体のために尊重されることはなかった。第二の亜人種だけが、人間の個人的な性格を、その性格の評価において過去の人生を考慮に入れるところまで発達した。

人間の共同生活に対する記憶のさらなる帰結は、共通の行いを記憶することによって結びついた人間の集団が形成されたという事実である。以前は、集団の形成は、完全に自然の力、つまり共通の血統に依存していた。人間は、自然が作り出したものに、自分の心で何かを加えることはなかった。しかし、ある強力な個性が、多くの人々を共同事業のために集め、この共同行動の記憶が社会集団を形成するようになったのである。

このような社会的共同生活は、第三の亜人種であるトルテック族においてのみ完全に発展した。したがって、国家というものを最初に創設したのはこの民族の人々であった。これらの共同体の指導者、統治者は、世代から世代へと受け継がれた。それまで同時代の人々の記憶の中にしか残っていなかったものが、父から子へと受け継がれたのである。先祖の行いは、その家系全体が忘れてはならないものであった。祖先が行ったことは、子孫に尊敬される。

しかし、この時代、人は自分の才能を子孫に伝える力を持っていたことに気づかなければならない。教育というものは、鮮明なイメージによって人生を形成するように計算されている。この教育の効果は、教育者から発せられる個人的な力に基礎を置いていた。彼は、思考の力を研ぎ澄ますのではなく、むしろ、より本能的な種類の才能を発展させたのである。このような教育システムを通じて、父親の能力は、一般的に息子に伝わった。

このような状況下で、第三亜人種は個人的な経験をますます重視するようになった。ある集団が新しい共同体を作るために別の集団と分かれたとき、その集団は古い現場で経験したことの記憶を携えてきた。しかし同時に、この思い出の中には、その集団が自分たちにふさわしくないと思うもの、快く思わないものがあった。だから、新しいことをやってみる。こうして、新しい土台ができるたびに、条件はよくなっていった。

より優れたものが模倣されるのは当然であった。これらは、神智学の文献に書かれている第三亜人種の時代に繁栄した共同体の発展を説明する事実である。獲得した個人的な経験は、精神的発展の永遠の法則に入門した人たちから支持を得た。強力な支配者たち自身もイニシエーションを受け、個人の能力が完全にサポートされるようになった。人間はその個人的な能力を通じて、ゆっくりとイニシエーションのための準備をする。彼はまず、上からの悟りが与えられるように、下からの力を発展させなければならない。このようにして、アトランティス人のイニシエーションされた王や指導者が誕生した。巨大な力が彼らの手中にあり、彼らは非常に崇拝された。

しかし、この事実の中にこそ、衰退の理由があるのだ。記憶の発達は、人格の力をあらかじめ際立たせることにつながった。人間は、その力によって何かを数え上げようとした。その力が大きくなればなるほど、それを自分のために利用したいと思うようになった。発達した野心は、著しい利己主義に変わった。こうして、これらの力の悪用が生じたのである。アトランティス人が生命力の支配から得た能力を考えると、この誤用が必然的に巨大な結果をもたらしたことが理解できるだろう。自然を支配する広範な力が、個人のエゴイズムのために使われかねないのだ。

このことは、第四の亜人種であるプライマル・トゥラニアによって十分に達成された。この種族は、上記の力の習得を指導され、しばしば自分たちの利己的な願望や欲望を満たすためにその力を使用した。しかし、そのような使い方をすると、これらの力は互いの効果を破壊し合う。あたかも足が頑強に人を前に運び、胴体が後ろに行きたがっているようなものである。
このような破壊的な作用は、人間の中のより高い能力の開発によってのみ阻止することができる。それが「思考力」である。論理的な思考には、利己的な個人的願望を抑制する力がある。論理的思考の起源は、第五の亜人種である原始セム族にあった。人間は、単なる過去の追憶を越えて、異なる経験を比較するようになった。判断力が発達した。願望と食欲は、この判断能力に従って調節されるようになった。

人は計算し、組み合わせることを始めた。思考を扱うことを学んだ。以前はあらゆる欲望に身を任せていたが、今ではまず、思考がこの欲望を承認できるかどうかを問うようになった。第四亜人種の人々が食欲を満たすために荒々しく突進する一方で、第五亜人種である原始セム族は内なる声に耳を傾けるようになった。この内なる声は、利己的な人格の主張を打ち砕くことはできないが、食欲をチェックする。

こうして第五亜人種は、行動の衝動を人間の内側に移したのである。人間は、自分が何をしなければならないか、何をしてはならないかについて、自分の中で折り合いをつけたいと願っている。しかし、こうして思考の能力に関しては内面で勝ち得たものが、外的な自然の力の制御に関しては失われてしまった。前述したこの結合思考では、人は鉱物界の力だけを支配することができ、生命力は支配できない。したがって、第五亜人種は、生命力の制御を犠牲にして思考を発展させたのである。しかし、それはまさにこのことを通して、人類のさらなる発展の萌芽を生み出したのである。新しい個性、自己愛、完全な利己主義さえも自由に成長させることができた。なぜなら、完全に内面で働き、もはや自然に直接命令を下すことができない思考だけでは、以前に誤用された力のような破壊的な効果を生み出すことができないからである。この第五の亜人種から最も才能のある部分が選ばれ、第四の根源人種の衰退を免れて第5の根源人種、アーリア人種の萌芽を形成し、その使命は思考能力を完全に発達させることにあった。

第六亜人種のアッカド人は、第五亜人種よりもさらに思考力を発達させた。彼らは、いわゆる原始セム人とは異なり、この能力を前者よりもより包括的な意味で用いていた。
思考能力の発達は、利己的な人格の主張が、それ以前の民族のような壊滅的な影響を与えることを防いだが、その主張が破壊されたわけではなかったと言われている。原始セム人は、まず、思考能力の命じるままに個人的な環境を整えた。単なる食欲や欲望に代わって知性が誕生したのである。生活の条件は変化した。
先行する民族は、自分の記憶に深く刻まれた行為や、豊かな思い出に満ちた人生を振り返ることができる者を指導者として認める傾向であったが、これらの傾向は今や知性に取って代わられた。以前は、鮮明な記憶の中に生きているものが決定的であったとすれば、今では、思考に最も説得力のあるものを最良のものと見なすようになったのである。

以前は、記憶の影響で、あるものが不十分であるとわかるまで、それに固執していた。その場合、必要なものを改善する立場にある者が、革新をもたらすのはごく自然なことであった。しかし、思考力が発達した結果、革新や変化を好むようになった。
各人が自分の知性が示唆することを実行に移そうとしたのだ。そのため、第五亜人種では乱世が始まり、第六亜人種では、個人の頑固な思考を一般的な法律の下に置く必要を感じるようになった。第三亜人種の共同体の素晴らしさは、共通の記憶が秩序と調和をもたらすという事実に基づいていた。第六では、この秩序は考え抜かれた法則によってもたらされる必要があった。したがって、正義と法の規制の起源はこの第六亜人種にある。

第三次亜人種では、ある集団の分離は、いわば共同体から追い出されたときにのみ起こる。計算機的な思考能力は新しいものを求め、人を事業や新しい基盤へと駆り立てる。アッカド人は進取の気性に富んだ人々で、植民地化にも熱心だった。特に商業は、衰えつつある思考力と判断力を養うものであった。

第七の亜人種であるモンゴル人においても、思考能力が発達していた。しかし、それ以前の亜人種、特に第四の亜人種の特徴が、第五、第六の亜人種よりもはるかに高い程度に彼らの中に残っていた。彼らは記憶に対する感覚に忠実なままであった。こうして彼らは、最も古いものは最も感覚的なものでもあり、思考能力から最もよく身を守ることができるという確信に至った。
確かに彼らは生命力に対する支配力も失っていたが、彼らの中で思考力として発達したものは、この生命力の自然な力のようなものも持っていたのである。確かに彼らは生命力に対する力を失ったが、生命力に対する直接的で素朴な信仰を失うことはなかった。この力は彼らの神となり、そのために自分たちが正しいと思うことは何でもした。そのため、彼らは近隣の民族に、この秘密の力に取りつかれたかのように見え、盲目の信頼のもとにこの力に身を委ねた。彼らの子孫は、アジアとヨーロッパのいくつかの地域で、この性質を多く発現し、現在も発現している。
人間に植え付けられた思考力は、第五の根源的民族において新たな推進力を得たときにのみ、人類の発展との関連でその完全な価値を達成することができるのである。第四の根源人種は、結局のところ、記憶の賜物を通じて教育されたものに、この能力を奉仕させることしかできなかったのである。第五の根源人種は、考える能力を適切な道具とする生活条件に達しただけである。

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