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【うゆという人間について】完璧主義という呪縛

私は完璧主義者だ。

言葉だけ聴けばあたかも何でもそつなくこなす完璧な人のように錯覚するかもしれないが、現実は真逆。平たく言えばコンプレックスの塊だ。
どうしたって理想の自分はこちらを振り向かない。そんな自分に執着し、今の自分に対してあれもこれも気にくわないと病んでいる自己メンヘラ。それが私、完璧主義者なのだ。

先にことわっておくと、「妬み」ではなく「病み」である。悪いのは相手ではなく自分。自分のここさえこうあれば…とないものねだりするのが完璧主義者だと私は考えている。

アリエルが幸せになることが許せなくて、アリエルの歌声を利用して王子を誘惑するアースラみたいなもんさ。
理想という誘惑には勝てないし、その対象は時に世間のステレオタイプをそのまま切って貼ったようなチープなものだったりする。でもやっぱり成功者や美しい人、才能を持った人を見てると、なんだか自分に足りないものを持ってると思い込んでしまい病む。そして無意識のうちに自分の心を傷つける。なんて救いようのない思考なんだろと、文字に起こしながらめまいがしてきた。


今回ここでは、私の夢と創作エッセイの誕生秘話について少しだけ書いていこうと思う。

私は幼少期から歌手を夢見ていた。大人たちの「上手だね~」という言葉を信じて疑わない田舎娘だった。勿論おだてもあっただろうが、それでも半分以上事実だっただろうとは思っている。根拠としては、物心つくと同時に身につけた絶対音感を頼りに、自宅でも公の場でも音程だけには気をつけて(完璧を求めて)歌っていたからだ。下手なはずがなかろう、ここまで気を張ってたんだから。そんな感じなので、歌を歌うことは楽しいと同時に、音程を外してはいけないという自身の呪縛に侵されて苦しいものでもあった。

人生初めての採点機能を使った高校時代のある昼下がりに、92点を叩き出した。曲はおそらくJ事務所所属のグループだったはずだ。今でこそ俯瞰して見ている(担降りではなく担卒と言った方がしっくりくる)が、彼らとの出会いは確実に人生の分岐点だった。楽しそうに歌い踊る姿に、「音楽って楽しんでできるもんなんだ」という当たり前のことを教えられた。

そんな平成のグループに魅了されて食い入るようにテレビ画面を見続けた中学時代を経て、高校以降はK-POPに心酔した。勇気を振り絞ってオーディションを3回ほど受けたが、相手にもされなかった。それさえも仕方ないと思ってしまう自分がいた。私は理想の私じゃないから、受け入れられないはずだよね。そう思って正当化した。あまりにも弱い自分を素手で打ちのめすの上手で笑えた。

平成のグループとK-POPにハマった共通点があった。それは、「第一印象キラキラ」。
自分はカラスか何かかと錯覚してしまいそうになるが、キラキラ輝く少し年上のお兄さんお姉さんには抗えない体質だという自覚症状がある。その理由の最たる部分を占めるのは、美しいものに惹かれると同時にふっと頭をよぎる「自分はキラキラしてないから」というネガティブ思考。結局はないものねだりばかりだ。そんなことないと優しく声掛けしてくれる友人もいるが、何よりも自分が自分に自信を持てないことが全ての悪の根源であり、一生肯定できない元凶だ。マジで申し訳ねぇ。

これは余談だが、実は少し離れた親戚に歌手活動をしている人物がいる。歳を重ねても尚健在な美貌と技術力には毎度驚かされている。
その方はデビューこそ華々しいものだったが、それ以降は長らく思うような活動ができずに苦しんでいると聞いた。
この人でも売れないのか、チケットが捌けないのかと知った幼い私は、彼女が無理なら自分には到底無理だろうと早々に白旗を挙げてしまった。これが、最初で最後に自分の人生を棒に振った瞬間だった。

私は歌を生業にしている人が好きだ。ただし、自分でも再現できそうなレベルには問答無用で「無理」レッテルを貼ってしまう。これが私の思考の癖だ。自分以上のものに惹かれ、自分未満のものには「よくそんな為体(ていたらく=ひどい、情けない様)でいられるよな」と嫌悪感をむき出しにしてしまう、傍から見たらサイテーなやつ。

大好きな歌を妥協したくないという気持ちと、絶対音感が故に嫌な音にとても敏感だったため、そこの基準は他の人に比べて厳しい自覚がある。音程を狂わせることを個性や美学として語るアーティストが許せなかったし、今も大嫌いだ。でもそれは裏を返せば、ちゃんとした音程で歌わないといけない、そうしなければ美しくないという自分の信念と真逆に位置するから嫌なんだという至ってシンプルなもの。
自分はアーティストでも音楽業界の関係者でもないのに、一体何を偉そうに喋ってるんだろう。ただの自分のプライドを砥石で鋭利に研ぎ澄ませただけの素人の言葉は、今日もどこにも響かずに空中分解していく。


私が「【創作エッセイ】アイドルになれたら」を連載する理由、それはただひとつ。自分の理想を文字に起こしたかったから。
頭の中で曖昧に浮かぶ像だけでは、具体的な境遇や環境の設定まで気持ちが追いつかない。自分がどんな姿でありたいか、どんな活躍をしたいかを文字列にし、的を絞っていく。
このような理想の主人公像を作るのは、実は小学生の頃から続いている趣味だ。魔法が使える子、多様な言語をあやつれる子、音楽センスの優れた子、一匹狼な子、周りから異様に愛される子など、その都度自分の自己顕示欲と承認欲求とないものねだりが混在した設定を完成させていった。

今回の主人公「うゆ」像の軸は、「音楽のセンスが優れている」「冷静さを失わない現実主義者」「無意識下で周囲に愛される」の3本だ。
・「音楽のセンスが優れている」→グループの作詞作曲を全て手掛けているという設定は、私がK-POPに出会ってから一番衝撃を受けた実在アイドルの肩書と合致する。彼のように、彼女のように、自分の表現が大衆に受け入れられる状況を体験してみたいと何度夢見たかわからない。
・「冷静さを失わない現実主義者」→私とは真逆の存在だ。理想を求めてふわふわと定まらない自分とは異なり、しっかり現実と向き合って生きている。そしてその努力が、大きな輝きとなって彼女に還ってくる。そんな憧れの姿をうゆに反映している。
・「無意識下で周囲に愛される」→こればかりは量ることができない。心の奥底にある欲求が反映されたまでだろう。うゆの愛され方を自分なりに分析すると、彼女の努力家な部分と才能が評価された結果、人間性を肯定されたということに過ぎないかもしれない。だが決してチープな愛ではなく、信頼と憧憬と母性本能が混ざった温かいものだと想定している。

なれないものへの憧れを、文字に起こすことで脳内補完して満足する。そんなだからいつまでたっても現実にならない。それに気づかずにまた病む、の繰り返し。本当に何を考えているんだか。全ては自業自得なのに。
そうやって負のループに入ったらこう言うのです。「まーた始まったよ」と。

それでも理想が記憶に残るならいいじゃないか、自分は自分の理想を言語化できるんだからすごいじゃないか、そう無意識に肯定するポジティブさも兼ね備えている人間だから私は最強。うん、言いたかったのは結局そういうことだったんだよな。


そうやって完璧じゃない自分に悶々としながらも、やっぱり今日は今日で生きるか~と思いながら大学に行ったりスーパーに行ったりしながら生きているのが私、このページの主・うゆだ。

あまりにも脆いこん棒とプラ板をリメイクしたちゃちい盾を授かった女性勇者として、自分の感情や苦悩に関してはちゃんと自分で理解してあげようと思いながら過ごしているただの人間Lv.21。まあ実際は世間の方がもっと面白いため、自分のことについてあれこれ悩むことは多くない。それでも完璧主義思考はいつでも襲ってくるし、それから逃れる術は未だ精度が鬼低い。

でも、そんなの自分さえわかっていればいい気もする。生きていく中で改善できるところは改善して、追求したい部分は理想像を道しるべに辿っていけば近くまでは辿り着ける。人生はいつ終わるかわからないんだから、できるところまで頑張ってみる価値はあろう。ストレスやコンプレックスを抱えて生き永らえるというよりは、生きて生きて幸せな経験をいっぱいできたら年数はどうでもいい。完璧主義を逆手にとって、とにかく理想を追求し続けたい。それが私の人生目標。

酷い腹痛で目が覚めても、打ち込んでた資料データが突然姿を消しても、今日しか会えない今日がある。そう思いながら外出の準備をしていこうと思った朝だった。


どう終わればいいかわからないので、ここでブツ切りにします。最後まで読んでいただきありがとうございました。

うゆ。

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