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分かりにくさこそ愛くあれ

時時こう思う。ワタシはご飯を食べているのではなくて、実は口にいれたものを吐かないようにしているだけではないのかと。咀嚼というスクラップと、食道を通して食べ物を流し込むということ、あたかも自然にやっているけれど、時時不自然に見えてくる。”大きな”ものが、いて、その強制力に屈従して、食事をしている自分を客観してしている。吐きそうになるけれど、身体はそうはならないような。意識の上での嘔吐への誘いはあっても、身体の上での嘔吐への誘いはない。入れてるのではなくて、出さないようにしている感じがする。

「分からなさ」を愛したいというよりも、ワタシはどこかで世間から逸脱していたいのだと思う。情報が横溢し、情報がさらにコンテンツ化していく中で、分かり易い情報、ストーリーとして気に入られやすい情報、パッと見て分かり易い情報というものが、人々の目に多く止まるようになるのだろう。(それは文章だけに限られない)

「分からなさ」がなんとなく排除されていくような気がしている。感情を引き起こしやすいとか、理解しやすいことは、大事なのかもしれないけれど、それは敢えてそういう風に設計されたもの。分かり易い情報ばかりを手にすることに対しては、ワタシは逸脱していたのだろう。「分かり易さ」の暴力に支配される前に、「分からなさ」を受容することの出来る身体の準備をしていかなければならないのだと思う。

全てが、「遊」みたいなものに支配される前に、「分からなさ」という一種の緊張感と、強制力を備えた「聖」領域を守りたいのだと思う。もちろん、「分からなさ」は、ある種の「不便さ」であるかもしれない。障がいのある方々にとっては、排除されなければならないものも、たくさんある。(あらゆる領域において。)でも、「分からなさ」を愛することと、ユニバーサルデザインについて考える事は、混同できないものではないか。誰もが暮らしやすい社会を目指すことは、「分からなさ」をとことん排斥していくことと同義ではないのだと思う。

情報は横溢する。そりゃ、質のいい情報が、分かり易いかたちで、見やすい形で示されてることは、本当に有難いけれど、そればっかりではないのだと思う。魚の骨。服に着いた土の汚れ。くちばちや羽。目玉。皮。雑音。壁。ノイズは色々ある。ワタシは、随分ノイズが排除された世界に生きてる。鳥の肉はただの肉塊となっている。効果効率的に殺されていく鶏は、ワタシの前では、よく分からないオレンジ色の小さなものとなり、「ナゲット」という記号を与えられてそこにある。

例え、社会の全体の性格が「分からなさ」をどんどん排除していくとするなら、ワタシは「分からなさ」をどんどん愛いものだと感じることが出来るようになりたい。(その為には色々しなければならない)せめて大学生の間は、大衆とは異なる流れのなかで。だから、この記事自体も、「分かり易さ」みたいなものを追求しようとは思わない。タイトルもテキトー。文章校正も文章構成も、大学のレポートみたいにしっかりしてはいない。そもそも、「愛く」を、「うく」と読めるかどうかすら分からない。読んで簡単に理解してもらおう、ではない。そうしたら、ワタシが大衆に迎合してしまう。今は少なくともその時ではない。

気持ち悪い。よく分からない。理解できない。知らんとも思わない。変。読みにくい。分かりにくい。だからなんなの。キモイ。黒歴史(これは違うだろうか)。

そう思われたなら、ワタシは少なくとも、そちらではない。「ノイズ」という分かりにくさを(一時的に備えた)キモイ人間であることが出来ているということだ。流れから逸れ、速さについていけず、遅くノロノロし、或いはそこに留まっている。案山子のように弱弱しく、木偶(デク)の坊のように頼りなく。ただ、違う方向を見て。a~zまでありません。リンゴはどこにあるか分かりません。鳥は怪我をしていて、飛び立つことが出来ません。線はとぎれとぎれで、ひどく伝わるのが遅いです。

「分かりやすさ」が支配する世で、「分からなさ」を見ると、何が見えるのか、今年はそんな一年にしたいなと思います。




今日も大学生は惟っている




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