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受験勉強に殺されかけないか


受験勉強ほど息苦しいものはない。

という風に

幾ら詭弁をつづったところで、

そんなことも頑張れない。覚えるだけだろ。東大の文Ⅰ類は努力で行ける。とか思う人もいるだろう。

受験勉強ごとき、才能とかにかかわらず、兎にも角にも”頑張ればいい”だけの問題だと云うひともいるだろう。

でも不思議なことに

この世には、驚くほど多種多様な人間に溢れている。

受験勉強が甚だしく簡単で、努力でどうにかなるような輩もいれば、その真反対の、頑張ったところで、という人間もいる。

当然日本では、前者の方がほめそやされることの方がほとんどだ。


大学に入る

正確に言えば

”名のある”大学に入ること、が予備校や教育の場である学校のアドヴァンテージとなる。予備校はまぁ分かる。それしか存在意義が無いのだし、究極のプライオリティであるからだ。

学校はといえばどうだろう。

ま。一つ言えることは、高等学校の学びと大学での学び・学問が断絶されたものになっていることだ。つまり、高校の予備校化と称することができる。


心の底から、

不思議だと感じていたことがある。


真に一流の学校なら違うと思うが、

ほとんどの生徒(高校)は、いつも私の周りは、ある時期が来るまでは、センターのなんだのと言うことがほとんどない。

何かが憑りついたかの如く、眼を変えて、彼らは机に縛りつくよう(勉強は机に座るだけじゃないけれども)に、私に質問してくるようになる。

なぜ彼らは、終わるとは知っているが、あんなにも味気なく、夢幻泡沫で、妙ちきりんな事柄にせっせと取り組むようになるのだろう。

その先に何が見えているというのだろう。


私はというと、その先に何も見出すことが出来なかったゆえに、道半ばでどうでもよくなってしまった。

周りは、相変わらず、宇宙に漂う点灯夫のように、筆を動かしては、消し、筆を動かしては、消し・・・。

その先に、有名大学合格というものが待っていることが、彼らには、神の世界に入って、この世のあらゆる罪から救われるかのように見えていたのだろうか。一体・・・どうやって?


といいつつも、私も、明らかに星の王子様になることはなかった。どこかで点灯夫であることが、正解であると思いこんでいた。


受験勉強

は一体何のためにあるのだろう。


死ぬ気で、勉強しろ。気が触れるまでやれば、合格しないわけがない。そういう話をどばどば流されて、その圧倒的な同調圧力に反抗する力は、自動的に、「とりあえずがんばろ」という意味の特にない活力として、昇華する他なかった。

性欲を芸術などの活動によって、消化しようとすることと同じだ。


だまして、だまして、だまして

とりあえず合格(入る)すればいいんだろう・・


やる気というよりも、むしろ諦念と称した方がいいような念に駆られて、私は考えることを半ばあきらめることに肯じ、受験勉強という作業に終始することにした。

それを一般に良い形、で終えたとしても、幸せが約束されているわけではなさそうだから、受験勉強は、能動的な活動とは程遠いものになり果てていたことは火を見るよりも明らかであるように思われた。


依然周りは、まるで蜜月の仲が黙契を交わしたのかとでも言いたくなるくらいに、その「作業」に俄然取り組んでいるのである。

しかしながら

彼らに「どんな勉強がしたくて、そんなに受験勉強に熱心に係っているの?」と問いただす気にはならなかった。

少なくとも私の周りには、

受験勉強を終えた後のモラトリアムを狂おしいほど切望しているような人たちしかいなかった(気がする)。

今彼らにあったとして、


魂の不滅はあると思う?

生きるってどういうことだと思う?

どんな勉強をしているの?

という類の問いをほいと投げたところで、まともな答えが返ってくるとはあまり思えない。逆に殿はそういう類の話しか出来なそうだから、それ以外にどう会話というものを展開してゆけば、満足してもらえるのか、是非耳をダンボにして聞きたいものだ。


受験勉強は、身体に悪い。これは断言する。


いくら進路を決める大事なイベント?とはいえ

十何時間も同じ体制で座り続けて、それを三百日以上繰り返すのである。さらに惰眠や懶惰が大好物な不肖この私は、朝早く起きることが嫌いだったものだから、受験当日は相当に参ったものだった。

故に

受験勉強を成功させる人は、いい意味で狂っていると思う。そういう風に育てられてきた人もいるかもしれないが。(あぁ、教育が産む格差の再生産)


さらに、僅か数カ月で◯◯大学合格という人も稀にいっらっしゃる。まっことに素晴らしい!のかは少々分かりかねるけれども、少なくとも言えることは、地道に努力して何かを成し遂げることを軽視することは、性に合わない。

数か月で得た者は、数か月したら失っていくもんだと(勝手に)思っている。


受験勉強はあやうく人を殺しかねない。

それは

脈動がその動きを止めることではなく、これから生きていく人間の生気・やる気・向上心・学ぶ力みたいなものをこれでもかと、その息の根を止めに来ることだ。

それは高校と大学の学びの断絶にかかわってくるだろう。


このような類の言葉は、第一志望に受かったやつが云うべきなんだけれども、そのような相を実現させることを、幸運なことに私は出来なかった。


何処の世でも、

フィーチャーされる人間は、「成功」したもの、「征服」したもの側から見たものだろう。

「敗者」「弱者」「五番手」「マイナー」「懶惰」

そういう人間の姿は、なぜか参考とされることが多くない。


だから、これは、まぁ分かると思うが、負けた側からの文句にほかならない。もはや勝ち負けなど、どうでもよいものなのだけれど。


受験勉強は、何と言おうと、受験勉強に向いていない人には、とことん目の上のたん瘤だ。

私は、幸か不幸か、その「じゅけんべんきょー」に向いていなかったらしく、もう何のために何をしていたのかすらも覚えていない。

華々しい戦歴でも、黒歴史でも、敦方でもない。

ただ「なにか、とてつもなくどうしようもないことしていた期間」。


そうしか言い表せない。


本当になにをしていたのだろう。高校三年の青春(それが青苦いものか、青く澄んだものかはわからないが)を、作業に費やしていた。

推薦で受かっていた友人のことをつくづく羨ましく思ってしまう。


半年もあれば、色々なことが出来たはずなのに。ま、過去を憂いても意味はないが、というか過去なんて存在していないのだから、意味以前の問題か・・・


受験勉強に向いていない人

それはきっと真摯に、学問に向き合おうとしている人やもしれない


どうして生きんだろ?

この学びの先に何が待っているのだろう?

働くってなに?

人間ってどういう存在?


純粋な疑問や好奇心を抱いている人を、

あいつらは、殺しかねないか?



今日も大学生は惟っている。



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