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「観光」という言葉から見えるもの

観光観光と。随分この言葉を繰り返してきた一年だったなと感じる。まぁ来年も再来年も、そのような感じだとは思うんだけれど。しかしこうは言うものの、ワタシは果たして「観光」という言葉について、十分な理解を有しているかと言われれば、そうではない。観光とは何かを訊かれれば、ある程度は答えることが出来るやもしれないが、それは曖昧模糊としたものである感が否めない。

ということで、この記事では、「観光」「旅」「旅行」という言葉を巡る言葉について、その言葉の意義や意味から、時代やイデオロギーの変化について考えていきたいと思う。(なんかようやっと、観光学を学んでいる人間らしい記事を書いているが、はたしてどうなのだろうか・・・)

まず、「旅」「旅行」「観光」というこれら三つの言葉について、完ぺきに定義することはできないが、区別を設けておきたい。

まず「旅」という言葉に関してですが、これは三木清さんの「人生論ノート」から、(以前も引用したことがあるのですが)引用します。

出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない。旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことのみ問題にして、途中を味わうことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものと言われるのである。(三木清、1954、134)

「旅」について、その根源探っていくと、興味深いことが分かります。

田村正紀によれば、「旅は非自発的なもの、流離の旅。故郷のことを想わないではいられない、外圧的要因が強いもの」であったようです。(田村、2013、1,29)

つまり、三木清さんの「人生論ノート」と、田村正紀さんの「旅の根源史」から推測可能な事は、旅というものは、「自らの欲求や欲望から由来するものでもなく、絶えず過程のみが続き、延々と目的地に到着しないこと」であると解釈することが可能なこと。

まぁ、古代の「旅」は、出発点があり、到着点もあるにはあったようで、正確に三木清の述べる「旅」とは軌を一にすることはないかもしれませんが、出発点と到着点の間の、現代とは比べ物にはならないほどの、時間的・空間的乖離というものを考慮すれば、間の「過程」という存在の大きさというものを強調する三木清的な旅と、日本の古代における旅には、一致するところがあるかもしれませんね。

旅 其の二

しかしながら、旅と称されるものには、「非自発的な旅」だけがあったのではないようです。増基法師や、以前少し紹介したことのある泉光院、松尾芭蕉など、個人的な欲望から由来するような旅というものが、無かったとは断じることは出来ません。

では、この「旅 其の二」は、前文で紹介したような旅と、どのような共通点があり、またどこで違う要素が現れているのでしょうか。まず一つの違いは、先ほども書きましたが、「自発的」であったこと。そして、その旅の意味や目的というものが、明瞭になっていることではないでしょうか。ちなみに、「旅 其の二」と区別するため、最初に書いた「旅」は、「旅 其の一」と便宜上表しておきます。

さて、旅の意味や目的が明瞭になっていることが、特徴ではないかと書きましたが、それについて、また田村正紀さんの「旅の根源史」から引用したいと思います。

若き西行が採った道は、世俗的な地位や富の獲得に換えて、新しい自己実現の価値を見つけること、それによって生活価値序列の転換を行うことであった。(田村正紀、2013、90)

名利名聞や名声ではなく、自己実現を目指す手段として、「旅」を利用した。これが、「旅 其の二」の特徴ではないでしょうか。ある意味では、「旅」がそれ自体、自己目的的なものから、一つの手段として降下したものであるといえます。しかしながら、一概に、手段として利用されるようになったからといって、どこかに着くという目的が重視されるような、非三木清的旅であるとはいえないと考えられます。

旅の一幕というか、目的地という目的地も、古代や中世にあまり見当たりません。(「歌枕」というものがありますが)これは独断ですが、旅のほんの些細な景色に注目したというか、如何にも写真を取れそうな、ディズニーのランドにありそうなフォトスポットのような場所を探し求めていたというよりかは、瑣末とも捉えられそうな景観を見て、その過程を楽しむことが、「旅 其の二」なのではないかと考えます。

「旅」という現象自体は、手段として利用されるようになりますが、旅という営為において、目的地以外はどうでもいいという態度は、まだ現れてはいないのではと。


さて、「旅」という言葉について書いたのですが、もう少し二千字をこえそうなので、この続きはまた今度ということで・・・。次は「旅行」について考えたいと思います。




今日も大学生は惟っている


引用文献

田村正紀.2013.旅の根源史 映し出される人間欲望の変遷.千倉書房

三木清.1985.人生論ノート.新潮文庫



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