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観光特産士と恣意性

大学の期末レポートのために調べものをしていると、「観光特産士」という資格を見つけた。簡単に言えば、日本の各地域の特産品を中心に、文化や歴史への見地を深めている者というところだろうか。さてはて、この観光特産士という資格、ワタシは取ろうとは思わない。これは誠に身勝手な物言いであることには間違いない。けれども、「観光」について学んでいるから、観光地に詳しいという安易な結び付けに対する反論のようなものとして、記事を残しておこう。

観光特産士に出てくる問題を見た。サンプルだ。それははたしてなんであるか。それは、その観光地で有名であると設定されたものではないだろうか。問題を見、回答をする。これは、歴史を学ぶこととほぼ同じだ。問題というのは、どれほど正当性を持ち合わせているかというよりかは、ある観光地において、あるサービスや物品や歴史や文化が、どれほどその観光地を代表するものであるとして、宣伝されているかという活動の結果に見える。もちろんただの思い込みだ。

観光特産士が知識として蓄えるものは、元々観光地として存在した場所にあったものなのではないと考えます。観光地に来てもらうには、宣伝や広告が欠かせません。多くの人が、勝手に観光地にやって来ることなどありえません。そもそも観光地というのは、人間によって意味付けされなければ存在しないものですから。観光特産士に限らず、世界遺産検定のような、地域についての情報を獲得し、資格を持つ者として認められることは、ある意味で、観光地(或いは諸地域)についてのイメージを構築することなのだと思います。(だからなんだということですが・・・)

これは個人的に心掛けることかなと思うのですが、こういう知識系資格の類において忘れてはならないことは、特に観光系のものについては、常に情報を精査し続けることや、知っていた情報と新しく知った情報の差異や所以について確かめる努力なのかなと。(資格取ってそれで終わりでは無いってことや)観光地は、ワタシの考えでは、イメージの集積体です。この意味で、観光地というのは、非常に人間的です。ジャック・ラカンの鏡像段階理論にあるように、人間は同一化の集積体です。(いや正確には、同一化というよりも、差異化と言った方が良いかもしれませんが)

常にイメージを付与され、そのイメージの統合体として、観光地が生まれるのではと、常常思います。そしてそのイメージは、常に一定ではありません。東日本大震災が起こる前と後では、東北地方にこびりついているイメージには大きな差異があります。チェルノブイリも、武漢も。イメージとはまた、人間というイメージの影響を受けるものです。少しでも観光地とされているものに関係しているとなれば、それが侵食していく。観光地ほど、いや観光という現象ほど、幅広い領域のイメージを受けるものはないと感じてしまいます。人間・都市伝説・災害・サービス・宿泊施設・口コミ・観光施設・インフルエンサー・イデオロギー・国民国家・宣伝・広告・内的欲求・外圧的強制力・知識・経験・人間関係・身体的条件など、あらゆる比較・同一化・差異化を経て、イメージが固着していくのかなと。

となんとなく色々書いて、観光地はイメージの集積体であるっていうイイ感じの文言が浮かんだから、ここまでにしとこ。

あ、あと金属バットの友保さんっていう人って、僕のヒーローアカデミアに出てくる「スケプティック(近属友保)」に似ている気がしたんですよね。てか名前に友保ってあるから、イメージは金属バットの友保さんなんでしょうか、気のせいかな・・・。あー。ヒロアカいいな。



今日も大学生は惟っている




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