1億3000万という幻想
もう新年お馴染みの「逃げ恥」の放送の番組表をながめてる。午前5時くらいから、午後2時くらいまでぶっ続けで三話から最終話なんだから・・・。この時なんとなくおもったしょうもない事は、そんなぶっ続けで放送するの・・・密だなぁということ。番組の連続放送が、「密です!」というか、「三密!」と粗品さんみたいに思ってしまった。我ながらつまらない。でも年始の番組表のコミコミ具合は三密どころか、十密にさえ感じられるほどの混み具合だ。海外は、相変わらずのどんちゃん騒ぎで、コロナは何処吹く風のようだけど。
「1億3000万のショータイム(?)」という嵐の櫻井さんが出演する予定の番組の宣伝されていた。「嵐(五人の)」の番組の後継ということでしょうか。はい。「1億3000万」って、これもろB.アンダーソンの「想像の共同体」じゃないの!と、思わざるを得なかった。実際は、日本の人口は「1億3000万」じゃなくて、1億と2500万くらいだし、なんなら日本の人口が「1億3000万」を超えたことは、統計を見てもない。「1億3000万」という数字は、分かっているかたも多いかもしれないが、「幻想」と同じだ。
というか、「1億3000万」というのは、ただの数字だ。一人一人に質問して、あなたは日本の人ですか(この質問がそもそもおかしいけれど)と訊いて回ったわけではない。その上、「1億3000万」近くが、一つの番組を一斉視聴することはありえない。不可能に近い。というか不可能。視聴率50%を獲得したとしても、たったの「6500万人。「1億3000万」には遠く及ばない。なおさら、「1億3000万」という数字が、ただの幻想に見えてくる。タイトルとしては分かり易いけれど、言ってしまえばめちゃくちゃ「嘘」だ。しかし、嘘だと思われなければ大丈夫なので、そのままにしておくのだろう。
日本というのは、「1億3000万」とイコールですら無いと思う。一つの国がただの数字で表現出来てしまうほど、国というのは簡素ではない。後感じたのは、「1億3000万」というタイトルの裏に想定されている、「日本人」とか「日本」という国や、それを拠り所にしているあらゆるものが、成り立たないようになる気がすることだ。「日本の皆さんが・・・」のような発言の類が、これからどんどん意味を成さないというか、空虚に思えるというか、この時代、「皆が皆まとまっている」という状態の、ある意味究極である「国」という単位としての人々という考え方が、古い気がする。なんとなくね。正解ではないよ。
そもそも、「想像の共同体」というのは、文字通り「想像」の産物。それが現在しているかどうかは、分からない。そしてこの「note」や、「サークル」なども、あるいは「企業」や「大学」なども、「想像の共同体」に近いものだろう。月間◯◯ユーザーという情報があって、他にもnoteをしている人がいるのだという情報風景を信じる(ワタシは会ったことはもちろんない)。何千万という人に、会ったこともないくせに。「大学」もそうだ。ぶっちゃけ、ほとんど知らない。大学という所に属する人間は自分以外にいるけど、「大学」という組織があり、人間が確かにいるという思いは、ただの想像に近い。ワタシにとっての大学は、この目で見たことがある人だけだ。ワタシにとっての「大学」とは少なくとも、大きな組織というイメージではなく、「人々そのもの」だ。だから、「家族」は、想像の共同体ではないことになる。会ったことも無い人と、大きな共感をほとんど覚えない。それらは、ただの不思議な、意思を持つ(ように見える)信号に近い。だから私も、そのただの信号だ。この文章は、ワタシとは言い切れないのだから。
そのような「想像」を、人間は拠り所にしている。まるで宗教みたい。でも人間には、そのような幻想のようなものが必要なのだ。増加し続ける人口の統御を行うには(150人以上の場合)、他の共同体のメンバーが存在しているのだという思い込みがどうしても必要になる。だからこれは悪いことでも、良い事でもない。人間という生き物が生み出した、一種の戦略にちかい。そう考えると、その戦略に人間は見事に従順なのだと思う。これも、生物の生きる一つの形。「1億3000万」の話しから、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」みたいな話しになっちゃたけど、これで終わり。
と
今日も大学生は惟っている
サポートするお金があるのなら、本当に必要としている人に贈ってくだせぇ。