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空間感覚-人と機械

E・M・フォースター(エドモンド・モーガン・フォースター)の、「機械が止まる」という短編がある。大学の講義で紹介してもらい、内容の概要的なものを教えてもらい、そのまま興味が湧いたのでさっそく買って読んでみることにした本だ。(あとこれは小言だけど、大学の講義で沢山の本について触れる類のものは、ちょっと意味が分からない。直観だけど、50冊~60冊くらい紹介されるけど、それらはただ教えられるだけでは、ただの情報の断片でしかなくなる。本っていうのは、実際にその本を読んでみないと分からないことが多いから、淡々と本を紹介して、背景を述べて・・・ってこれなんか作業みたいと感じてしまった。というか、紹介してもらった本を読むだけの時間が日本の大学生には無い気がする。日本の大学は、単位は少ない癖に、授業の数がバカみたいに多いんだよね。「機械が止まる」を読み始めたのも、冬休みに入って、時間が出来てから。全然時間が無いよ。本当に、


”暇がない”(E・M・フォースター、1996、177)





車の免許の問題がある。時間があるうちに取っておけというが、なんとなく気が進まない。これはつまり面倒くさいということもあるのだが、練習中に事故を起こして万が一にも人を殺してしまったらどうしようという、要らぬかもしれない不安が漂っている。車のことを馬鹿にしたいわけではないが、歩くことが疎かになってしまうかもしれないなんて思うこともある。後、金がかかる。

車があれば世界がひろがるという。それって、世界が小さくなっていることの裏返しでもあるわけで。高炭素社会の恩恵を受けてきた近代の一部の人間どものおかげで、地球はあらまぁ温暖化中である。人間の移動だけを優先し、山を掘削し、樹を薙ぎ、土地を平面化する。谷崎潤一郎は、広がり続ける鉄道網と、その轟音に壁壁していたようだが。

「機械が止まる」という作品に出てくる、母の「ヴァシュティ」と、息子の「クーノー」の会話のやり取りにこんなものがある。引用する。

「母さんも知っての通り、人間は空間の感覚を失ってしまったのさ。『空間は消滅した』とよく言われているけど、消滅したのは空間ではなくて、空間の感覚さ。〔中略〕『近い』とは、ぼくの足ですぐに行ける場所のことで、電車や飛行船がすぐに連れて行ってくれる場所のことではない。〔中略〕人間が尺度なんだ。(E・M・フォースター、1996、192)

人間の身体は、進化する。いや、適応能力が異常だといっていい。車の免許を取る過程で、車の運転の練習をするということは、車の運転の能力をある程度まで高めるということであり、また自分の身体感覚を、車というものに沿わすことでもあるとワタシは思う。

ワタシはよくこういう。

「歩いても行けるし・・・。」と。すると他人はこういう。車なら、もっと”近い”よと。つまるところ、ワタシの発言の裏に隠れているのは、「近さ」という基準を、「歩く」という行為に当てはめているということ。だって、車で運転したことはないから。けども、車の類で移動したことはあるので、車に「近さ」という基準を置くというのも、分からないわけではないです。ただ、「近さ」という空間感覚の違いが、ちょっとした会話に現れているなぁと、車の免許問題から少しではありますが、感じ取ったわけです。

人間が尺度なんだ。(E・M・フォースター、1996、192)

という言葉は、プロタゴラスの云ったようなこととは、おそらく異なります。あちらの発言は、全ては相対的なものだという言い分だとは思いますが、「クーノー」という青年がいったのは、人間の主体性の回復に関するものだと思います。

栗毛の馬・電車・飛行機・自転車・スクーター・ジェット・船・グライダー・人型飛行など、人の移動を速くしてくれるものはたくさんあります。けどそれは、空間や時間という要素を、障がい、乗り越えるものだと捉えることだと見なす態度です。この考えは、以前引用した、ヴォルフガング・ザックスという方の考えに似ていると思います。

それにしても「時間がかかる」ことはいつから問題となったのだろう。文明批評家で環境運動家のヴォルフガング・ザックスによれば、「時間と空間は克服されるべき障害」とするところにこそ近代という時代の特質がある。(辻信一、2001、94)

とは言いつつも、鉄道が現れた1870年くらいの時代より前の人間に比べれば、ワタシも、随分「空間感覚」が失われてしまっているのだろうなと思います。(あらら)まず、遠くに行こうと思ったら、公共交通機関を使えばいいという習慣と、そのような身体感覚がしみついて離れません。この意味では、ワタシは「遅さ」を受け入れることができないのかもしれません。遅さを愛したい。のろまな自分と、のろまな移動をそのまま受け入れたい。そんなこと言っておきながら、速くないと耐えられない自分が確かにそこにはいます。ワタシは、「ヴァシュティ」と、息子の「クーノー」のどちらかと言われれば、あらゆる「遅さ」を排除しようとするヴァシュティという機械崇拝者に近いかもしれません。

以前、

という記事を書いたことがありますが、まさにこれは、「機械が止まる」という作品における「空間感覚」という問題だったのかもしれません。「どこでもドア」は、この意味では、「空間感覚」を奪う非常に危ないものかもと、今年の一月にちらっと考えていたことを想い出します。便利は、必ず何かしらの代償を要求するということでしょうか・・・




今日も大学生は惟っている



引用文献

辻信一.2001.スロー・イズ・ビューティフル.平凡社

E・M・フォースター.1996.E.M.フォースター著作集5 天国行きの乗合馬車 短編集.(小池滋訳).みすず書房



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