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「本を読む」って何だろう

高校三年生の時、文化祭も終わり、秋の匂いが聞こえ始めていたころ。まさしく受験勉強まっさかり。家はただの寝る場所。暮らす、或いは住んでいる場所ですらなく、死んだように睡眠をとる場所だった。受験勉強をするべきであるはずなのに・・・と言っていいのかは与り知るところじゃないけど、ワタシは「東大読書」という本に引っ付いていた。何故読んでいたかは分からないけれど、相当張り付いていた気がする。

本の読みかたが、少しづつ変わっていったのは、おそらくその本が原因だ。ただ字面だけを追う。ワタシの読書はまさにその最たるもので、特に工夫という工夫もない。ただ、「東大読書」を読んで一つだけ覚えているのは、「付箋を貼れ」ということだけだった。今思えば、すごく革新的な内容が載っているというよりかは、工夫して何かしていれば当然のように出てくるもの・・・とも言えるかもしれない。でも一読してもいいかもしれない。

あれから、2か3年。「本を読む」ということに対する考え方が、大分変った気がする。本を読むというのは、何もすごく特別なこと(本が貴重だったころは違うかもしれないけれど)として考えているのではなく、生活の一部と化しているということ。そして、「本を読む」ことが、「本だけを読むこと」とは必ずしも一致しないということ。幾分か、成長したと言えるのだろうか。

大学一年生の時に読んだ(気がする)ショーペンハウアーの「読書について」という本を読んだ時に、或いは読書論みたいな本を読んでいた時に載っていたショーペンハウアーの考えは、「本を読む時に大事なのは、読まないこと」だった。今見れば、なんのこっちゃであるが、当時はわざとらしいかと思えるほどの「?」だったような。そしてこの考えに色々付け足すなら、本を読む時に大事な事は、「本だけ読んでばかりでいないこと。というのも、自分で考えるということを放棄しているのが読書という状態だから、元来の(自分の)意見と突き合わせみたり、他の本と比較してみたり、自分の意見を再構築したり、他人と会話をしてみたり、そして自分で考えることも必要だ」とも言える。宛てになるかは分からないけど。

本だけを妄信するな。それが、本を読むことなのかもしれないと、薄々と思ってくるようになった。まぁその分、すぐに疑うようになってしまったかもしれないけれどね。「なんで。ねぇなんで?」って、ウザイほどの別の自分が結晶のように形成されつつあるよな。でもまぁ、それもそれである。

今のところ、本に関しては大学生のうちに少なくとも1000冊は読む(触れる)ようにしたいと目論んでいる。1000冊”分”はとっくに越しているかもしれないが、1000冊はまだ読めていない。読んでどうこう、というわけではない。今しか出来なさそうとということになった時に、ばっらバラのジャンルの、時代の、言語の本をたくさん読む!ということしか思い浮かばなかっただけのことだ。幸い日本語に翻訳されている外国の本は多いし、まんま外国語の本もたくさんある。新刊もまだ出る。読めば読むほど、読みたくなる。いや、何故か読んでしまうと言った方がいい。これはワタシの”意識”ではないのだろう。

関係は無いけれど、高校生の時に図書館を全然利用していなかったことにすんごい後悔している。借りたのは10冊くらい。後図書室の方が、古新聞になった英字新聞の余りはいらないから、くれたりもした。まぁ実際読んでいる人もそんなにいなかったから、貰い放題だったんだろうけどね。いや本借りろよ何やってんだよワタシ。

ということで、「読書」に関して色々書きました。大学を卒業するまでは、本とは切っても切れない生活にあるんだろうな。いや、死ぬまでか、その先までもか。後何冊、本を読むことが出来るのだろう。




今日も大学生は惟っている



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