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味のしない天麩羅、水で薄めたカルピスの原液或いはカルピスの原液で薄めた水⑧

ここに二人の男がいる。二人はすでに死んでいて、横たわっている状態だ。仮に、この二人の皮膚という皮膚を剥いだとしたら、あなたは一体どちらがどちらの男性かを見分けることが出来るだろうか。それが三人、四人、五人、六人、七人、八人と増えていったなら、見分けることが出来るだろうか。

これは、私が書きたいことのアナロジーだ。表面から読み取ることの出来る情報なしに、人は物事を事細かに分類し、理解することが出来るのか、という疑問だ。

さてここで、とある画像を見て欲しい。

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これは、一体なんだろうか?

まずこれを見て、どこのメーカーが作ったものか、あてられる人はそうそういないだろう。

実はこれは、このようなパッケージに普段は包まれている。








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そう「カルピス」の包装だ。

この包装を見た瞬間に、先ほどの白い容器の中に、なにが入っているかを理解した人も多いはず。いや、むしろそのような形でしか理解できなかったのではないか。

わたしがおそらくここで言わんとしていることは、現代人は、物事を内面や実利的な側面、物質的なところから理解することは非常に少ないのではないか、ということだ。

それほどに、今生には、似たようなものが横溢し、誰もかれもが似たようなことをし、誰かと似ていないようなことをしようとするという、誰かと似たことをしようとする。商品だって、サービスだって、とにかく人のやること成すことは、なんとなくではあるが、似ているのだ。

しかし、カルピスのパッケージのように、強力で表面的な情報があれば、そこに「差異」が現れる。同じような内容であっても、表面上の情報が持つイメージによって生じる、個性的な印象、ブランド、雰囲気、物語があることで、「イメージ」が「現実」を超克し、差異を持って人々に認知される。

より分かりやすい例を挙げるなら、「お茶」である。「綾鷹」「お~いお茶」「爽健美茶」という商品は、おそらくその名前が付いてないお茶に比べて、はるかに手に取ることが多いのではないか。明確な根拠など、どこにもないけれど、なんとなく「善さげ」という恣意的な判断で、その商品を手に取る。

「イメージ」は、「現実」を超える。その「現実」に大した違いがなかろうとも。その「イメージ」によって、あまりにも大きすぎる違いが生まれる。

カルピスと同じような飲料を仮に作ったとしても(ダメだけど)、もうすでに「カルピス」というイメージには、大きな大きな物語を構築し、内包している。

暑い野外。汗。カルピスをおでこに押し付けてくるあの人。青い夏。あの日のプール。永遠のように感じられるあの人の時間。手には「カルピス」。

そういう「イメージ」が、既に定着している。カルピスが少し薄かろうが、濃かろうが、カルピスという「イメージ」と、そのカルピス片手に微笑むあの子がいる景色も、決して色あせたり、滲んだりはしないだろう。

と思うことも、メディアが造り上げてきた、「カルピス」というイメージかもしれない・・・。

さて、あなたは「カルピス」一本に、どんな「イメージ」を持っている?




今日も大学生は惟っている。





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