随筆01「個人とは」

何か、固まった一つの思索の型のようなものが絶対に必要である、という思い込みが、西洋から輸入されたものであることに、なぜ気が付かなかったのか、今となっては疑問です。「枕草子」や「徒然草」を読んで、そこに「一貫した思考があるはずだ」などと息巻いている姿は、どうにも格好がつきません。実体を持たない幽霊と必死で格闘しているような滑稽さを覚えます。

近代化する以前の日本においては、一貫した「筆者の主張」なるものが、「物を書く」という行為とセットではありえませんでした。「一貫した思考」「論理的」に考えることを「国語」の力であるというように標榜する学習指導要領をけなすつもりは毛頭ありません。それは、現在では、そうなのだろうと思います。しかし、そうでなかった時代のことも、我々が綴っているこの「日本語」、もっと言えば「やまとことば」と呼ばれる言語が肩で風切って歩いていた、そのあたり時代の、根底にある判然としない言語感覚について知っておくことは、現在使っている「日本語」と「古語」が地続きである以上、非常に有意味であることだと思うのです。

では近代化する以前の書き物の特色とは何か、ということですが、大著『本居宣長』を著した小林秀雄の言を借りれば、宣長自身には「説としてまとまったものはなくて、雑文みたいなものの集まりがあるだけなのです」。これは『枕草子』でも同じです。『枕草子』は宮廷から集められた「紙切れ」に気の赴くまま書かれたものなのです。やはり『徒然草』の冒頭にあるような、単なる「つれづれなるままに」の精神がある。非常に有名な序段の文章ですが、たぶんあれは、謙遜ではなく、ただ正直に述べた、というようなことなのでしょう。

しかしそんな言語状況が、戦後、一変します。一貫したものが、急に求められ始めました。初等教育で広く行われている作文指導は、その最たる例だといえます。「あなたが感動したことと、あなたが悲しんだことが混じってしまっているね。今回のテーマはあなたが感動したことなのだから、そのことだけを書きなさい」こんな指導を受けた経験は多くの人がお持ちでしょう。

それに並行して、急激に勢力を伸ばしていったのが「個人主義」という考え方です。「個性」と言い換えても良いでしょう。何があっても変わることのない「あなたの軸」を構築することが、「人格の完成」と同義で語られるようになったのです。我々は「書き物」だけではなく、「人生」にまで「一貫した文脈」を掲げるように、そう圧力をかけられる事態となってしまいました。宗教革命時の運命論と似た響きさえ感じます。息苦しいです。

ですが、諦めるにはまだ早いのです。この現状を打開するに、良い方法があります。平野啓一郎「『個人』から『分人』へ」によると、以下要約。

「人々は『個人』の価値を疑うことなく信じてきた」が「個人」は「極めてヨーロッパ的で近代的」な概念である。一人の人間には、色々な顔があるのだから、単一の人格「個人」になりきることは不可能だ。だから、自分の中にある複数の人格、その全てが〈本当の自分〉である、と捉えなおして、もっと楽に寛大に生きてはどうか…

私はこの思考の転換に賛成です。加えて言うならば、このほうが我々日本の国土の上に住むものにとって「性に合っている」のだと思うのです。先述したとおり、私達の先祖は、私たちに流れる血は、皆このスタンスで生きてきているのですから。現代という時代区分はここ半世紀ちょっとの話ですが、今私達が「古典」と呼んでいる時代は、日本書紀から数えれば、2000年近くあるのです。急に外面だけ変えたって、拒絶反応が出るに決まっています。2000年の蓄積に抗うのは、そう楽なことではないですね。

したがって、私は、人格的八面六臂、大いに結構と思います。リアルとネットで人格が違う?当たり前です。親の前と友達の前で態度が違う?当たり前です。そんなの一緒のほうが不気味です。過酷な時代を優雅に生きた先人に倣い、複数の一貫しない自分を大いに認めていくことが、楽しく生きる秘訣なのだと、考えています。

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