インターネット 2023/05/16

思うところはいろいろあったけど、私がどうこう言ったりしても、合わない人は合わないので、どうしようもない気がする。私が、あのとき何が嫌だったか、見ているのもしんどかったか、もう、うまく説明できない。

自分が傷つくたびに、同じことを他人にやらないように、という枷が増えていく。だけど人はそれを知ることもないで生活を続けるので、意味のないことをしているような気がしてならない。意味のない枷を引きずって怯えながらインターネットに生きる化け物になってしまう。できることなら、他人を気にしたくない。

日記というか記録というか、思ったことを記すだけのnoteだけれど、ここでも表現とか気にしまくっていて、もう、発散できるような場所が残っていない。発散のためにストーリーを組んで小説でぶちまけるしかないかもしれない。これはフィクションですという保身をしないともう汚い言葉も他人を傷つける言葉も出せない。これをやっていくうちにきっとフィクションという保身をしても言えないことが増えてくるんだろうなと予感する。自分で自分をがんじがらめにしている。何もいいことはないのに。

どれだけ言葉を気にしたってきっと、なんだこいつと思う人はいるだろうしある程度以上やる意味はないはずなのにやめられない。当たり障りのない言葉を探している。段落2つめの最後「できることなら、他人を気にしたくない」は最初「他人なんか」としていたのを書き換えた。拍車がかかっているな、と思った。直した、と書くことによって、直す前の表現を見て欲しいという考えもあることに気づいた。見せたところで、本当の表現ではないし、心の根元までは見えないから意味はない。でも少しでも根っこに近づいて欲しいという感覚はあるみたいだ。

自分がやったことを即座に客観視すること、役にはたつけどメンタル的にはあまり良くない気がする。失敗した時は客観視すると本当に苦しくて、自分に対して共感性羞恥を発動したりする。失敗した自分を俯瞰して見て、その周りを含めた状況に恥ずかしくなっている。どうしようもない。

Twitterの雑多アカウントを消した。多少、スッキリした。気軽につぶやけないのはもどかしいけど、それを創作へ向けることができる気がした。つぶやくことで無駄にインターネットの下水へ流していた、心の機微や創作のエキスを、脳内で捏ねては熟成させる時間が増えるし、それを余すことなく作品に使える。SNSは悪、とは言い切れないけど、創作の質を良くするためには、接し方を考える必要がある。きっかけは良くないことだったけど、断ち切れそうだということは、喜んでもいいと思う。

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