生と死、性と詩
親戚が死んでしまって、ここのところ原因不明の腹痛をたまに感じていた私も、普通にもうすぐ死ぬんじゃないかと思った。他の症状も合わせて調べてみると、大腸癌とかがヒットして、少しだけ心配になる。
雷が鳴って涼しい風が吹く実家の玄関で、とっておきの音楽を聴きながら、私には似つかないハイライトメンソールを吸っている。
死ぬんだったら、煩わしい就活が始まる前に死んでしまいたい。別れが悲しいと思う人間が、1人でも増える前に死んでしまいたい。今死んだら、友達たちにとっては印象的な死だから、私のことを誰も忘れないんじゃないかな。
目立たぬ所で少し派手に生きている私も、惑星レベルで見たら、誤った言動も犯した罪も、大したことない。人はどうしてそんなちっぽけなことをいちいち責めたり議論したりするのか。誰にも迷惑かけないなら、別にいいじゃない。
この頃、昔はよく泣いていた映画を見ても、あの曲を聴いてあの日のことを思い出してみても泣けなかった。でも今、少し明るい空に雨が降って風が吹いている外の空気に触れただけで、涙が出た。故郷の力なのだろうか。
私はどの時代も、社会に適合している「フリ」をすることが得意だった。自分が周りの価値観とズレているということを理解したのは小学生の時で、それからずっと、日常を窮屈に感じていた。しかし、大学生になって喫煙所に行ってみると、私と似たような匂いのする人達がいた。彼らと出会って、私は「フリ」をすることを辞めた。
すると、驚く程に気が楽になった。私は心の内の100パーセントを人に話している訳では無いから、彼らが私と同じような境遇にいるのかどうかは分からない。私にしか理解できない苦悩があるのと同じように、きっと彼らにもそれがある。でも、間違いなくこれまでよりは生きやすい。しかし同時に、社会からどんどん離れていく自分が分かりやすく目に見えるようになった。街や学校ですれ違う人が皆、いい意味でも悪い意味でも違う世界の人に見えて、私は優越感と不安と、誰に対するものなのかも分からない罪悪感を、同時に覚えるのであった。
生きていて楽しいと感じる瞬間は多いけれど、意味の無い事の方が遥かに多い気がして、今日もまた、考え事をする。この考え事こそが、この世の中で最も意味の無いことであるのはわかっている。
彼らと出会えて良かった。いつも一緒にいる訳ではないけれど、たまに喫煙所で邂逅すると、不覚にも安心してしまう。お互いに依存していなくて、良い意味でドライで、お互いを頼りにしていない感じが、私にはとても居心地がよくて、それが逆に頼りになっている。
多分、私が死んでも、彼らは泣かないだろう。何故ならば、彼らも私と同じように、少し俗世から離れているような所があるから。私はそんな彼らが好きだし、なんなら私の死、ごときで泣かないで欲しいと思う。
というのは建前で、そんなのは嘘、ほんとはわんわん泣いて欲しい。
そして、それをきっかけに、それぞれが、音楽やら映画やら芸術やら文学やら、それぞれのフィールドで何かを残してくれたら、それ以上幸せな事なんて無い。そしたらきっと、私がこの世に存在していたことが証明され、意味がやっと見出され、やっと自信が持てる気がする。
でも、死んでしまったら、その作品を見ることも聴くことも読むこともできないのか。そう考えると、死にたくないな。この矛盾をどう説明していいか分からず、ただ、彼らに会いたいと思う。
こんなに生やら死やらを語っていても、結局、私はまだ死なないんだろう。死は迫り来るものであると同時に、突然訪れるものでもある。それに、世の中の不条理な法則と私の経験談から言わせてもらうと、優しくていい人ほど、命が薄い。だから私は、死にたくてもいつまでも生き長らえてしまう側の人間かもしれない。
煙草を吸い終わって、少し伸びたネイルを眺める。東京で過ごす日々を思い出す。服やアクセサリーで着飾って、もう終電が無いので、タクシーに無心と傷心を混合させたまま飛び乗って、ぼんやりと自分の長いネイルを眺めている時に、私は一番生きた心地がする。だからこの生き方がやめられない。こんなの、死んだ方がマシ。
私が本当にしたい事はこんな事じゃなくて、でもそれは実現できないから、自分の心に嘘をつき続ける。現実から逃れたくて、現実離れした事をしたい衝動に駆られ、つい真夜中に足が外へ出てしまう。そして帰り道は音楽を聴きながら後悔する。なんか、とても体調が悪い。
いいよ、別に期待なんかしてないから。でも、お願い。一番最後は、どうしても、どうしてもきみに会いたい。何もしてくれなくていいから、ただ、私が見てきた汚い視界に入ってきて、それを全て無かったことにして欲しい。
きみに奪われて、幸せでした。
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