Twitterを「卒業する」ということ。
社会人になって以来10年以上使っていたアカウントを削除し、Twitterを退会した。
その直接的な経緯については割愛するが、
2年ほど前から良い知れない息苦しさを感じつつ、惰性でTwitterと関わってきたように思う。
アカウントを削除した瞬間に大きな喪失感を感じると予想したが、待っていたのは「開放感」と「安堵感」だった。何故なのか、自分なりに考えを巡らせてみよう。
まず最初に、この文章はいわゆる「ツイ廃」について考察したものであることを断っておく。趣味の情報収集や推し活、ビジネスといった用途でTwitterに触れる人々については考慮に入れていない。
Twitterは匿名制であるが故に、一人の人間の側面がことさらに強調されやすい。その側面を隙なく育てていった結果、「リアルでの自分との乖離」が生まれてしまうように思えてならないのだ。
思えば、私は演じていたように思う。年齢相応の振る舞いをもって社会に意見すること、自分の充実や悩みをもっともらしい理屈をつけて発信することに。
人間の行動は矛盾だらけ、一面を切り取って一本筋を通すのは難しい。リアルの自分とは少し違う「ペルソナ」をネット上に作り出し、それに縛られてしまっていたのかもしれない。
そもそも、リアルとネット上の人格が乖離することは良いことなのか悪いことなのか?
私は原理主義的に言えば、これは良くないことと感じる。道徳を含む人間性は、リアルの感情に宿るからだ。匿名性の元では、前述したペルソナが先行する。その為、Twitterでは道徳を考慮しない信じられないような暴言が飛び交い、ネットリンチが横行する。
「リアルでどうしても言えない辛さや怒りを、匿名で言うのがTwitterだ」という意見もあると思う。かく言う私もそうだった、34歳まで、仕事に追われる日々の中で溜まる何かを吐き出していたように記憶している。それは否定しない。
だから、私はTwitterを卒業したのだ。
いくばくかの経験を積み、払った犠牲の対価としての一定の社会的・金銭的余裕、大切な伴侶を得た。もうネットのペルソナに心を定義されることは無い。他者と比較する必要自体が無くなったから。
これからはリアルの自分に正直に生きていこう。コンプレックスの発散では無く、生活を変えることで小さな幸せを獲得していきたいと思う。
今週末は妻と一緒にブラウニーを食べながら、井の頭公園を散歩しよう。それで良いのだ。
最後に、一つの記事を紹介したい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?