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差別をどう共有するの



スポーツブランドのNIKEがつまずいた。

2020年年末から、NIKEジャパンは、ある広告キャンペーンをリリースした。女性をテーマにし、外国の血をひく女の子たちが学校生活で体験したいじめに耐え、スポーツの試合の場で自分の未来を掴むことを、ショットフィルムで社会に発信した。(*1)

動画は2千五百万のビュー数を獲得するものの、日本のYouTubeで大きな非難を浴びた。「そう思わない」ボタンを押す数が、いいねボタンを押す数の倍にもなった。そしてそれは、動画が削除されたまでの処置になった。コメント欄で、「NIKEは外国のブランドなのに、自分の価値観を日本に推し付けないで」など反発の意見が多く見られた。

このNIKE広告の担当者鎌田慎也は、日本で生まれ育った慶應卒の日本人だった。(*2)彼の話によると、1年間で、日本の学校のいじめ件数は61万を超えた。(*3)NIKEジャパンの新しいキャンペーンを考案するとき、リーダーたちはこの問題に注目し、日本の社会が目指すべき姿を促そうとした。

いじめはよく知られた社会問題である。良し悪しは別として、いじめをテーマにしたドラマや漫画が世の中に溢れている。しかしこの動画では、いじめの対象が外国人だったために視聴者が攻撃的な態度になったと思われる。この女の子達は、外見は外国人に見えるかもしれないが、日本で生まれ、日本国籍を持つかもしれない。日本在住の外国人として、私はこのような世論が気になった。さらに、クリエーティブ職として、敏感な社会問題をどう表現するのが適当だろうと、この興味深いチャレンジを自分の中に頭脳体操を始めた。

社会であまり発言権がない人たちが自分の体験を語り始めるとき、メインストリームの人々にとって、異質的な声と感じるのだろう。その異質感を日本の視聴者と動画の主役の二つの視点で検討してみたい。

日本では、空気を読むことなど暗黙的なルールがあり、よく共同体に参加している人に強いられる。動画の内容が日本人への反発の意見に見えるから、「そう思わない」ボタンを押した日本YouTubeの視聴者が「日本で生活するなら黙れ、日本人の規則に従おう」みたいな態度が感じ取れる。しかし、他人をいじめない日本人は、この動画を見ると、自分も日本社会の一員として、責められる気持ちを少し感じているかもしれない。

では、動画の主役に近い人たちはどう思うのだろうか。外見を含め、異なるアイデンティティを持つと、違いを避けることはできない。日本社会の初心者でもあり、たとえ悪意がなく、何もしないとしても、違いを持つだけで差別されるとしたら理不尽である。まるで、彼らの存在自体がメインストリーム社会から否定されているようだ。また、たとえ日本人の女の子であるとしても、女性として、男性主導の環境に自分の違いを感じて、自分が差別される時もあるのだろう。



エイミー・エドモンドソン教授は「心理的安全性」という現象を明らかにし、全世界の組織心理学とビジネス経営領域に影響を与えた。日々人と付き合う中で、他人に馬鹿にされたくないから、言いたいことをやめることが多い。あるいは、おこがましいと思うので、業務に役立つことに気づいても、黙って放っておくこともある。日々の人間関係にはリスクがあり、黙る方が楽だし、個人的にメリットが大きい。どんな立派な組織であっても小さなグループで築かれているので、「心理的安全性」がないと、話すのは逆効果や無駄になる恐れがある。つまり、文化と関わらず、空気を読むことは、まさに「心理的安全性がない」現象を反映するのだ。しかし、黙ったら、潜在的なリスクを是正する機会を失うとともに、システム的に大きな被害に遭う危険性が高くなる。逆に、「心理的安全性」がある組織は、互いに傷つくことを心配する必要がないことから、もっと効率的に交流し、学習能力も成果もより高くなる。彼女の本には、フォルクスワーゲン車の全世界規模の不正から、福島の原子力発電所事故まで、このような心理が仕掛けされた失敗と成功の例が多く挙げられている。(*4)

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心理的安全性と人間関係のリスクの概念を知ると、「そう思わない」ボタンを押した日本の視聴者の心理を理解できるのだろう。NIKEの広告の最後、女の子たちは「いつか誰もが、ありのままに生きられる世界になるって?でも、そんなの待ってられないよ」と言った。勇気ある発言だが、個人主義を前にし、社会の現実にぶつける姿勢をとった。ストーリーの流れは、彼女たちが孤独を感じるとしても、自信を持って一人で頑張っている姿を強調したことで、逆に私たちと他者との対立が注目された。
 
周りから理解されない青春の孤独感、自分の居場所を探すこと、二つとも心の琴線に触れるテーマだが、心理的安全性がまだまだ揃ってない日本社会では、広告の中のいじめられた異文化の女の子たちと共感するより、CMの内容が日本に対する悪意だと解釈する人が出た。

もともと多様性を支持しない、メインストリームの空気を周りに強いられるネット右翼がこれを見ると、もっといら立つだろう。先に述べたように、「外国のブランドが声を出すな」、ウイグル強制労働とNIKEとも関わる話題を提起し、フォーカスをNIKEの倫理の欠陥にずらしたい人がいた。
 
メインストリームの空気の中に生活し、周りに配慮し、広告の鋭いメッセージに対して日本の視聴者は、「日本では外国人への差別がそんなにひどくないよ」と、周りのハーフと外国人との仲良い例を挙げたコメントが出た。
 
もちろん、この広告のメッセージを歓迎した人もあり、ネット上の世論は全部の日本人の意見を反映したものではないが、NIKEが広告を削除したことは、日本でのプレッシャーの大きさを想像することができる。

とはいえ、マイノリティという言葉が示すのは、メインストリームでないグループだ。メインストリームになり難いし、発言権もあまりないので、マイノリティを包摂する空気が自然に醸成されないのだろう。一般人は特にマイノリティを無視しないとしても、自分と関係ないと思うので、注目しない。時には、その他人事の態度が不親切に繋がり、時に差別になることもある。異文化の人と仲良くすることが嬉しいが、全社会の現状を代表できない。数十年にわたった在日韓国人との課題を含め、NHKさえ、昨年黒人にまつわる報道に謝罪した日本では(*5)、ところどころに人種差別が潜んでいる。

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 人種の話題はさておき、実は、誰でもマイノリティになる時期がある。病気になる時、子供のとき、子供を育てる時期、歳をとる時など。人は社会的な動物なので、なんでも一人で責任を取って、他人に迷惑をかけないことには限界がある。なんでも個人の責任に押し付ける社会はむしろ不自然で、人道に外れているのだろう。

空気が悪いなら、その空気を変えよう。空気を読めないと思われるのは仕方ない、空気は自然に変わらないから。NIKEジャパンは「声を大にしながらすべての人々に対する包摂性、敬意と公平な対応を訴えていきます」(※6)と言った。この広告を出す前、反発が出るのを予測できたのだろう。
 
心理的安全感があれば、たとえその場の空気と逆行し、異論を出すのも責められない。しかし、広告が示されるように、日本は「いつか誰もが、ありのままに生きられる世界」になるまで、まだまだ時間をかかりそうだ。



企業が広告を出す時、それは社会へのメッセージだ。購入の意欲や、ブランドの価値観への共感を喚起し、時には問題提起をしてるのではないだろうか。今回のNIKEの動画のような、敏感な問題は扱いにくいので、多くの企業は最初から取り上げないのだろう。リスクをとりたくないから。

けれども、有意義で敏感な課題にチャレンジすることは、クリエーターとして、とてもやりがいがある。もし自分が今回のテーマを広告として撮影するならば、切り口は三つに設定したい。

まず、スポーツの団体性に着眼したい。NIKEはスポーツブランドなので、いつもスポーツの積極的な影響力を発信している。今回のCMも、サッカーを中心に女の子の物語を作った。サッカーは団体競技なのに、広告ではチームワークの世界には触れなかった。もし、チーム作りを切り口にすれば、他のチームメンバーはこの女の子を仲間として受け入れる努力をしなければならない。ゲームは一人でするものではなく、チームでまとまらないと負ける。例えば、チームメンバーが外国の血を引くとして、もしその仲間がクラスの中でいじめられたら、君はどのような行動にでるのだろうか。ここで、日本人の視点が出る。これによって、私たちと他者との対立でなく、お互いに協力することを前に出る。

二つ目の切り口はフレッシュな視点。実は、マイノリティの人たちが自分の体験を語る時、よく日常生活の新鮮さが現れる。例えば、子連れの家族は異文化の家族とどこかの運動場で出会い、子供達が一緒に遊ぶのをきっかけに、普段話かけない大人たちが交流し始め、日本人には見えない日本を知る。好奇心に駆られながら、空気転換のきっかけのストーリーを書くのが型破りな表現になる。しかし、前文で示したように、先に社会に心理的安全性を作れるのは重要だ。もし、メインストリームの視線とマイノリティの人のナレーションをパラレルで進めれば、一方的に責められる雰囲気が弱くなるだろう。社会に発信し、何かの行動を促したいなら、少しずつ支持者を増やしていくことは大事だ。

三つ目は我慢から脱出すること。東アジアの儒教文化の中、階級、年齢、性別などはよく優位になる前提になる。目上の人間から無理やわがままな要求を出されると、我慢するしかない。スポーツの世界にも、よく見られる現象だ。もともと日本人は我慢を美徳とし、辛抱強いことを誇る傾向がある。しかし、力が弱い人をテーマにすると、ただ我慢を強いるのはやはり無理だろう。時代遅れのイメージが感じられる。したがって、若々しい雰囲気を表現して、無理を美化しない方がいいだろう。もともとゴルフ以外、多くのスポーツには若いイメージがあるので、その解放感を目指せば、共通言語を作ることができる。(*7)

今回のNIKEの広告のように、ドキュメンタリー風で問題提起をするのはとても有意義だ。ただし、心理的安全性がない場合、逆に固定イメージを強化する恐れがある。「差別」をきっかけに、ワクワクする社会へのヒントを提案したいのなら、スポーツの団体性、フレッシュな視点、我慢から脱出すること、この三つの切り口は有効だろう。あくまで、「差別」を見せるのは目的ではないので、差別になる原因を遡って、「違いと付き合う」新しい視点を提起するのは、きっと面白い広告になる。

*1:「動かしつづける。自分を。未来を」:https://vimeo.com/496360782
*2:鎌田慎也オフィシャルサイト:http://www.shinyakamata.com/
*3:文部省2020年のいじめ調査:https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00855/
*4:エイミー・エドモンドソンの「恐れのない組織」:http://www.eijipress.co.jp/book/book.php?epcode=2288
*5:NHKの黒人にまつわる報道の謝罪:https://www.asahi.com/articles/ASN6C64Z6N6CUCVL02V.html
*6:朝日新聞はこの広告についてNIKE広報担当に伺った:https://digital.asahi.com/articles/ASND362CMND1UCVL020.html?pn=4
*7:「Play New」韓国のバージョン「A New Day」:
https://www.youtube.com/watch?v=-SBsT032jVI
「Play New」日本のバージョン「New Girl」:https://www.youtube.com/watch?v=JI1zJ6-SYhU
2021年の夏、NIKEは「Play New」の新しい広告キャンペーンシリーズを出し、今回担当者の鎌田が日本と韓国の二つの広告を担当した。日本のバージョン「New Girl」(*8)が女性へのイメージを切り口にするが、韓国のバージョン「A New Day」(*9)が我慢を切り口にした。二つの広告とも技術的な完成度が高いが、韓国バージョンはよりフォーカスされていることを感じた。
日本の「New Girl」は新しい父と母を主役にし、残念ながら、この二人は今風の家族の視点を持てなくて、社会の性別の思い込みに我慢し続けた。男性が、娘が生まれるのをきっかけに女性に父親として協力する意図も現れていない(なかった)。これによって、スポーツが象徴する解放感はおとぎ話のように、その二人と関係ないことのようにに見えた。逆に、韓国の「A New Day」を観たとき、社会には古い慣習があるものの、若い心の底から出る力から目を逸らしにくかった。敢えて先生やルールに挑戦することなく(ことではなく)、「自分が体験している今を楽しむのが何か悪い」を言い放った。他人の目を気にしないことが、小悪魔のような楽しさや自由な若さを感じた。楽天的すぎるかもしれないが、共感のバランスを掴むことに拍手した。

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