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タクシーの片手袋

数日の穏やかな気候に油断した三月の半ば、近所のパン屋さんが差し入れてくれたホットコーヒーに冷えた手を温めながら書いています。
雨が屋根のついた歩道を濡らすほど降っていますが、空気はしっとりとスフレのように優しく悪い気はしません。

休憩室の管理業務をしていると、週一とはいえこの小さなスペースから何度も目にする景色が増えていきます。そんな光景の一つに、あるタクシー運転手さんの姿があります。


<タクシーの運転手さん> 


彼は大抵13時位に姿を現します。といっても、休憩室に寄るわけではありません。目の前の道に車をちょいと停めて、白い薄手の手袋をはめた手のまま降りてきます。そして、二軒先にある八百屋さんへ向かいます。
年齢と長年の業務の為かシートの形のように背中が丸まっています。なにも命令されていない時、人はそれぞれ独特の歩き方を持っています。彼も、丸めた背中に腕を後方へ伸ばしてバランスをとり、歩いていきます。

彼は八百屋さんで糠漬けを買います。糠漬けしか買いません。中身を見せてもらったわけではありませんけれど、透明のビニールに多少こびりついた糠とともに入れられた胡瓜や蕪をみとめることができます。
毎回、同じ位置に車を停めると、八百屋さんへ行きその日の糠漬けを数種購入して車へ戻ります。車へ戻る時、彼の薄い白い手袋は片方だけ外されています。お金を払うためだと思います。片方の手にビニールを下げたまま車のトランクを開けます。
休憩室からは彼の行動とタクシーとがよく見えます。狭いトランクの左右に細いロープのようなものが渡され、そこへ洗車に使う雑巾が四、五枚吊るされています。片隅には洗剤などが入っているのでしょう、プラスティックのカゴが一つあります。その手前へ、糠漬けの袋を置くのです。

今日は雨でしたので、一連の動作はとても素早いものでした。もし初めて見るのならば彼が持っている袋が糠漬けだったことや、白い手袋にも気が付かなかっただろうと思います。しかし彼は、毎週ではないにしろ定期的にそこへ車を横付けし、八百屋さんへ糠漬けだけを買いに降りるのです。

濡れた車道を走る車に、早めに落ちた雨が実際に降っているよりも強く音を返します。
タクシーの運転手さんは背後を確認してからささっと二歩だけ、気持ちの分だけ走るような仕草で車に乗り込みました。曲がった背中は彼のシートにぴったり収まるようでした。朝礼でさせられる背筋を伸ばした姿勢の方に違和感を感じるほど彼と椅子は一体でした。

雨粒に光るウインカーを点滅させ彼は車を通りへと進めます。どこか、お昼のお弁当を食べるお気に入りの場所か、操車場でもあるのでしょう。

いつか、タクシーに乗って後部座席のさらに後ろの方から微かに懐かしい日本の家庭的な香りがしたら、横須賀のことを上町のことを、タクシーの運転手さんと八百屋さんのことを思い出して下さい。


<本日の読書>

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今日は上町休憩室でカミュの本を読んでいました。彼が長年記し続けていたノートで、メモやアイディア、これから書く小説の構想や調べ物の走り書きなどを読むことができます。自分の近くに置き、何の気なしに捲りたいそんな一冊です。


ただひとつ可能な自由とは、死にたいする自由だ。真に自由な人間とは、死をあるがままに受け入れながら、同時にさまざまなその結果まで──つまり、人生のありとあらゆる伝統的な価値の転倒を受け入れるひとのことだ。

『太陽の賛歌 カミュの手帖1』アルベール・カミュ著 高畠正明訳 新潮社 p.86

*写真は外装の状態が少し悪いですが、通常は装丁も素敵な本です。


たまたま開いたページに釘付けになる文章を見つける。または、たまたま開設した場所で糠漬けを買いにくるタクシーを見つける。紙や道路の上で日々何かが発見される。それは誰かが必死に、或いは自然に生きているからで、ちょっとの雨や何かでその営みが完全に消し流されてしまうということはないのだと信じています。

実際に降っているよりも強く聞こえる雨はやがて止み、肩の力がほぐれるような日和が少しずつ近付いてきます。



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