見出し画像

シネマ中座記:アッバス・キアロスタミ監督 『そして人生はつづく』

キアロスタミ映画は覗き込みが奥深い

 人の顔。映画は見ず知らずの顔たちを覗き込む。製作者によっては井戸の表面をなぞる程度の作品もあるが、キアロスタミ監督の映画は覗き込みが奥深い。彼の映画は井戸の底で鈍く光るかすかな灯りを静かに掬い上げる。

 『そして人生はつづく』(アッバス・キアロスタミ監督)を観た。昼食が遅く、ポップコーンも一袋食べてしまったので夕食を遅くしようとのんびりしている夜のこと。ゆっくりぼんやり過ごすつもりで見始めたのだが、十数年ぶりに観るきあロスタミを舐めていた。とてもぼんやりと過ごせる映画ではなかった。印象としてゆっくり風景が流れていく作品が多く、のんびりしたい気分にちょうど良いかと思っていたのだが違った。画面に見入ってしまった。キアロスタミ監督は静かに深く刺してくる。過ぎた年月でそのことを忘れていた。

『おんぼろ自家用車と坂と人間の映画』 あらすじ

 『そして人生はつづく』はキアロスタミ監督が以前撮影したイラン映画『友達のうちはどこ?』のロケ地を再訪したことに題材を得ている。大きな地震が彼の地を襲い、出演者の安否を確認しようと震災後に監督自らが訪れた経験を元に作られた。
 一言で言えば「おんぼろ自家用車と坂と人間の映画」だがあらすじを書こうと思う。
 キアロスタミ役の男と小学生くらいの息子が小さな黄色い自家用車でイランの田舎を走っている。彼らは地震後の瓦礫の残る道や酷い渋滞や喧騒の中を進んでいく。混雑した大通りをそれて田舎道へ入る。埃っぽい道を大きな荷物を担いで歩く人々に声をかけ、道を尋ねながら進む。主人公は映画に出演してもらった少年の安否が気掛かりなのだ。かつて撮影した町に近付くにつれ、当時のことを知る人々や出演者と出会い彼らの人生に起きたことを聞き始める。果たして監督の探す少年は無事なのか、その村はどんな様子なのか。物語はくすんだ黄色い自家用車と共にゆっくりと進んでいく。

 さてここからはネタバレしながら『そして人生はつづく』のどこに釘付けになったかを書いていきます。最後まで全部書いてしまうので、未視聴の方は読むか閉じるかご自身で判断を願います。結末までこまごまと書いてしまいますので。

キアロスタミによって映される人間の表情

 キアロスタミ監督は演技なのか素の表情なのかの判断をしかねるほど、俳優に自然な演技をさせる定評がある。今作もまさにそうで、父親の車に同乗した息子役の少年も自然な顔を撮影されている。ドライブの途中で野良小便をするために降りた息子が直ぐに帰ってこず、草むらのバッタを捕まえてから車へ走るシーンがある。その少年の嬉しそうな表情と道の凸凹で転びそうな足元の不安定な走りを捉えた映像。見事だ。震災に直面し、各自に先の見えない乱れた人生がある。それでも小さな幸せを探しながらよたよたと生活は進んでいく。そのことを表したかのようなシーン。車の中から彼を観ている観客の目線(カメラ)へ向け、一目散に走ってくる少年の輝いた顔とぐらぐらな足元。

運ぶ人 乗せる人 断る人

 この映画の特徴的なこととして通りの先々で出会う人が〈車に乗っていくかどうか〉そして彼らが〈何かを運んでいる〉ということがある。道中で何度もそういった場面が登場し、その都度回答や態度が異なる。例えば主人公の男は重いガスボンベのようなものを運んでいる女性に声をかけ、乗っていくか聞く。しかし女性は近いから大丈夫と答え、ただ重いのでガスボンベだけを先のところまで載せてほしいと伝える。屋根のラックに載せられるボンベ。色褪せてくすんだ黄色い自家用車はボンベを載せて坂を登る。頂きのところで車が止まりボンベだけが降ろされて車は先へ進む。
 別の場面ではセメント袋のようなものを担いだ男が「歩いた方が早い」と答え道だけを教えて別れる。便器を運ぶお爺さんは助手席に乗り込み、悲惨なことがあっても生き残った人間にはこれが必要だという話をする。あるいは石油ストーブを運ぶ二人の少年は自ら乗せてほしいと頼む。そして主人公の息子が見つけた緑の目を持つ少年は、探している男の子ではなかったものの、かつて映画に出演した男の子で彼はツルハシを運んでいる。男は彼を乗せ、大きくなったねと近況を聞き始める。その一方で息子と少年は子供らしくサッカーの話題で盛り上がるが、勝敗に賭ける物品を何にするかで田舎と都会、あるいは持つものと持たざるものの対比が描かれる。この緑色の目をした少年の表情が深い。あるときは怯えた小動物のように見え、今にも泣き出しそうな顔をし、一転して何事もなかったかのような清々しい子供の笑顔を見せる。そのどちらも演技とは思えないような表情で全く役者の匂いがしない。役者ではない本当の生の姿の人間が助手席で喋っている。そう見せる。これがキアロスタミ映画というものだ。

小さくささやかで見事な場面 

 目的の村に近づき、目当ての少年が少し前にこの道を歩いて行ったことを路上の青年から聞く。主人公の男は車を走らせる。この路上の青年もすごくいい表情をしている。笑顔が底抜けに優しい。緊張した旅先で出会うと心の和む、見る側には特別な、しかし本人にとっては日常な優しさで満ち溢れた顔。
 やがて主人公は目当ての少年たちに追いつくが、この二人が別人なのだ。なかなか憎い脚本。彼らが降車する際に村への道を教えてくれるのだが、そこで主人公から渡されたチラシを返すシーンがある。全体としては小さく短い場面だが脚本がいい。うまいなと思う。この先の道のことを窓の中に手を突っ込んで説明する車外の少年。走り出す車。チラシ。どれもがしっくりしている動作の上に物語の厚みを出す重要な言葉劇でもある。

車と坂と人間の結末

 そして最後のシーン。この車では到底無理だと言われ続けたオンボロのくすんだ黄色い自家用車が砂利の急坂を登っていく。その先にいるはずの少年と村を目指して。乗せてくれという道端の人を無視してかっ飛ばし、急坂へ挑む。しかし坂は勾配がきつく、未舗装でタイヤが滑り登りきれない。それでも男はめげずに再挑戦する。一度下がって勢いをつけ直す。しかし無常にも坂は弾き返す。エンジンの止まってしまう黄色い車。
 主人公の男は車外に出て諦めたように上着を着なおす。視線が一瞬山頂へ向く。人影らしき小さなものが映る。あれは。そこへ先ほど無視して通り過ぎた道端の人が通りかかる。男は彼にエンジンの止まった車を押してもらい来た道を引き返すように坂を下っていく。車は画面から見切れオレンジのガスボンベを担いだ道端の人だけが坂道を登っていく。超望遠で撮影された映像がゆっくりと引いていく。厳しい現実、震災という出来事の後、それでも続くきつい坂道をボンベを担いで登らなければならない道端の人。映像はとてもゆっくりと引いていく。人や景色が小さくなっていき厳しい坂がまだまだ続くことが映される。
 このまま映画は現実を直視させ終わるのか。その時、画面の右下に小さなしかし見慣れたあのくすんだ黄色いおんぼろ自家用車が姿を表す。そうだ彼は諦めなかったのだ。一旦下った坂道で車を押し掛けしてエンジンを再始動させ、またこの坂に挑むのだった。ボンベを担いだ道端の人はすでに坂の難所を過ぎている。黄色い車は砂埃を上げながらもう一度坂とカーブに挑み、それを超える。そのままの勢いで車を走らせ、続く坂道を走っていく。道端の人を抜かして。しかし、思い直したように少し先で止まる。一度目は理由があって無視した彼の人を今回は乗せる。彼は今しがた手伝ってくれた。主人公にも一度目は理由があった。それぞれが様々な理由を抱えて別々に生きている。それでもたった一度のことでお互いに何かを決めつけてしまうことなく、協力することが人間には可能だ。車の屋根にガスボンベを置く音が響く。景色に溶け、おもちゃのように小さくみえるくすんだ黄色い自家用車が再び坂を登り始める。できることは限られている。それでも人生はつづく。

 ラストの心に訴えるカメラワークは撮影者ホマユン・パイヴァールの技術による。美しい静かな画面、丁寧で細やかな脚本。映画。この美しい人々と場所をアメリカやメディアや政治家、戦闘、疑いや恐れによって破壊してはならない。人は困難な時でさえ、そう望めば協力できる生き物なのだ。映画の中で無理だと思われた絨毯を瓦礫の下から引き摺り出す老婆。彼女のように諦めなければ。

fine  シネマ中座記:アッバス・キアロスタミ監督 『そして人生はつづく』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?