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受験エッセイ『付箋まみれの日々』 1.「模試」

「模擬試験」という、忌まわしきイベントがある。「模試」と略される。

本番に近い形式のテストを、本番さながら一日かけて解く。平日には普通に授業があるのだから、先生方はそのイベントを週末に設定せざるを得ない。

月の予定表に整然と並ぶ「三学年 第〇回 △△記述模試」の文字。もちろん、「第一回 バーベキュー大会」とか「第一回 スパリゾートハワイアンズツアー」のような陽気な予定が書かれたことなど一度もない。

気分が盛り上がる記述はせいぜい「短縮授業」とか「簡単清掃」ぐらいのもので、あとはずっと辛いイベントが散見されるだけである。

こんな現実なのだから、クラスメートたちの表情も曇り、教室の雰囲気も重くなる。週末に模試がある週なんかは特に残酷で、「今日は木曜! 明日行ったら休み……!」➡「って、土曜は模試じゃねえか! ズコーーッ!!」という思考サイクルが休み時間の度に繰り返される。

こんなとき先生がサンバのコスプレでもして授業に来てくれたら幾分か気持ちも晴れるだろうが、残念ながらそんな愉快な先生は私の高校にはいない。沈んだ気持ちのまま、「模試」が来るのを待つだけだ。

ここまで模試に対する愚痴を書いてきたが、奴は「合格判定」という他のどのテストも持っていない武器を持っている。「合格判定」とは、志望大学のデータを記入して提出すると、模試の結果に応じてその人の合格可能性がA~Eの5段階で評価されるというシステムだ。あまりにも残酷なシステムだ。

しかし、その「合格判定」は勉強のモチベーションになり得るし、自分が受験者の中でどれほどのレベルに達しているのかを知ることは重要である。

これで、模試を休める理由がなくなる。

今まで数々の模試が催されてきたが、結局私は一回も休まなかった。周りの友人たちも同様である。みんな、空虚な表情を浮かべながら週末も学校へと向かっていた。

模試は案外すぐ終わる。試験時間なんていくらあっても足りなく感じるし、問題を解いているときの時間の進みは尋常じゃなく速い。気づけば窓の外は暗くなっていて、「あぁ、もう夜だ……」と可哀そうなため息を漏らす。教室のスピーカーから「サライ」でも流してくれれば感動するのだが、鳴るのは試験終了を知らせる「ピピピピピ……」という無機質な音だけである……。

全ての教科を解き終えると、やっと解放されるという達成感と脱力感が教室中を駆け巡る。「あ゛あ゛あ゛~~~~ン………」と、オヤジが湯船に浸かるときの様な鳴き声がそこかしこから聞こえる。模試を解くと、高校生は老けるのだ。

しかし、本当の地獄はこれからだ。

「自己採点」という、自分で自分の首を絞めるような苛酷が待ち構えているのだ。我々は前世で何らかの罪人だったのではないかと、よく疑問に思う。

程なくして、分厚い冊子が配られる。その分厚さは週刊誌のそれに匹敵する。中身は、「解答と解説」という名の大スクープである。

問題用紙にメモした自分の解答と、模範解答を照らし合わせる。合っていればマルをつけ、間違っていれば自らの手でバツをつける。

自己採点。なんてことない名前だが、その隠された本質は幸福と絶望を昇降し続ける無限ジェットコースターなのだ。地獄富士急ハイランドなのだ。全員黙って丸点けをしているが、胸のうちでは阿鼻叫喚。はらわたが千切れる思いでペンを走らせている。

自分の出来が「良い」か「悪い」かは、まだ分からない。

それを知るのは、全員が自己採点を終えた後。

周 り の 友 人 た ち の 会 話 か ら 知 る こ と に な る の で あ る 。

「数学の大問3どうだった?」
「あー、むずかったよね。(3)が全然分かんなかった」
「(2)まではいけた?」
「当たり前だろww こんなん教科書レベルじゃんww」
「だよなww」

⬆私

「英語の2つ目の長文マジ分かんなかったー」
「あぁ、俺はそこ飛ばして英作文解いたww」
「だよなー。やっぱそうするよなー。俺もそうした」
「英作文で点数稼がせる感じだよな今回」

「現代文どうだった?」
「まず漢字は完答で……」

こういう時、私はそそくさと問題冊子をカバンに詰め込み、Twitterを見る。模範的な現実逃避である。友人から「ちょっとお前の点数見せて」と言われても、「ヤメテ……オレキョウダメダ……」と蚊の鳴くような声を出すので精一杯である。

頭の中は自己嫌悪の大吹雪。自尊心は呆気なく壊滅し、情けない自分の点数が眩しく点滅している。ほんっっとうに、泣きたくなる。

「模試というのは、どうしてこうも人を揺さぶるのだろう」

学校から帰る道、自転車で坂を上りながらそう思う。

結果がければ、今までの自分を抱きしめてあげたくなるし、結果が悪ければ、今までの自分に「ちゃんとやれ!!」と唾を吐いてやりたくなる。

結果が良ければ、通りのパン屋を見て「美味しそう! いつか寄ってみよう」と思うし、結果が悪ければ、全てのパンがカビればいいのにと思う。

そうして自分の流されやすさ、自己の不確実さを再認識し、またやるせなくなる。空はすっかり暗くなって、自分を追い越す車のライトの明るさに「ウザい」と思う。

こうして模試は終わる。

模試の結果が返ってくるのは、およそ半月が経ったあたり。次の模試に向けて、またクラスの雰囲気が重くなってくる頃である。ホームルームの時間に担任が分厚い紙束を持ってきて、クラス全員が気づく。「あっ……」と気づく。

誰しもが、気が気ではいられない。だって、その紙には自分の志望大学の「合格判定」が書いてあるのだから。

結果は、担任が出席番号順に一人ずつ手渡す。渡す前に成績をチラッと確認されて、一言もらう。その一言も怖い。

一度私が壊滅的な点数をとったときは、

「何があった?」

と言われた。いや、こっちが聞きたいよ。トホホ……。

自分の結果が手渡され、恐る恐る確認する。一番大切なのは自分の苦手な単元や周りと比べて出来ていない問題を確認することなのだが、どうしても合格判定が気になってしまう。むしろ、それしか脳内にない。

結果は、大学により様々である。「A判定」をとった事もあるし、「D判定」を食らった事もある。

ただ、「A」の文字を見たときは、何とも言えない幸福感に包まれる。思わず調子に乗ってしまう。友人の判定をニヤニヤしながら確認しようとする。ヤな奴だ。自分はどこまで軽い人間なのだろうかと、書いていて情けなくなる。

だが、また次の模試がある。この繰り返しだ。

先生はよく、「模試の結果に一喜一憂してはいけない」と言う。私が思うに、それはある程度人生経験を積んだ人間だから言える事であって、高校生へ教訓として言うのは少しずれている。我々の足りない想像力からすれば、「模試の結果」≒「受験の結果」なのだ。一喜一憂して当然である。

喜び、悔いる。喜び、悔いる。その繰り返しを続けているうちに、「本番」はもう目の前なのだ。

まったく、ひどい話だ。しかし、その経験が確かな実力となったことは疑いようもない事実である。

もしタイムスリップが出来るのならば。私は、模試の結果が悪くて涙目で自転車を漕いでいる自分に会いに行きたい。パン屋を見て「カビろ!」と思う当時の私に車で並走して、「大丈夫だよー!」と叫んであげたい。

そんな突拍子もないエールが、彼には必要だったのだ。



(おまけ)

今まで解いてきた模試の冊子。おぞましい量である。







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